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>HOME >投稿塾 >VOL181「昔、炭鉱があった。」
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今月の投稿テーマ
『昔、炭鉱があった。』
北海道の近代の歴史は、炭鉱を抜きに語ることはできないでしょう。ある時期、北海道はまさに石炭産業と共にありました。
私の石炭の思い出は小学校のときの教室のストーブです。道外の小学校でしたが、だるまストーブの燃料は石炭。たきつけ用の薪、新聞紙、石炭を取りに行くのは日直の役目。帰りの掃除のときの石炭の燃え殻の匂いは、今も記憶に焼き付いています。
きっと読者のみなさまは、直接炭鉱と関わりがあった方も多いことでしょう。炭鉱全盛のころ、街の様子はどんなだったのでしょう。
今年、石炭、鉄工、港湾の「炭鉄港」が日本遺産に制定された北海道。炭鉱や石炭に関する思いを、どうぞお寄せください。

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炭鉱には特別な思いはありません(うひょーっさん)

東京生まれ、埼玉育ちなので、炭鉱というと『ヨイトマケのうた』『幸せの黄色いハンカチ』『フラガール』テレビの中の世界でしかない。(のりのりさん)

小学校は石油ストーブ、なのに中学校はルンペンストーブでした。貧弱な装置から上手に燃やすには、それなりのコツが必要なことを学びました。「炭鉄港」とはいささか強引な組み合わせですが、北海道なりの近代産業遺産の姿と考えることにしています。(三連星さん)

本州の生まれ・育ちなので、炭鉱には縁がありませんでしたが、北海道の炭鉱遺産にはとても
興味があります。(ほわさん)

夕張市にある「石炭の歴史村」(以前の名前)へ行った事です。
子供の頃に学校行事で行ったきりでしたが、5年前に前職を退職してゆっくりしていた時期に20年ぶり位に行きました!(あんなさん)

幼いころテレビで落盤事故の報道を目にして暗い印象しか無かった。今では懐かしさや美化されたイメージが一般的なのだろうが、一面的に過ぎるような違和感も感じる。(るぴさん)

大変な仕事です(nimoさん)

炭鉱が町を支えていた時代があり今があるのですね(とらさん)

とても大変な仕事だと思います(hnさん)

母子家庭で母が働いていたので、学校から帰るとまず石炭ストーブを焚くことでした。寒いなか小学校低学年の子供では大変で泣きながらストーブと格闘しました。今でもスイッチ押すだけのストーブに感謝、そしてよく頑張った自分を偉いねと褒めたくなります。悲しい思い出となって記憶しているためか秋が苦手です。(玉屋さん)

立派な小学生。よく頑張りました!

炭鉱との関わりはないのですが、炭鉱で頑張ってくれた方々のおかげで今があると感謝しています。(ぽっちさん)

いまは さびれてしまった
炭鉱も その時代の活気溢れる
生活を 資料館などで
感じてみたいと おもいました。(かなたんさん)

小学生の頃、毎年冬近くになると、トラックで石炭が我が家の[石炭小屋]に運ばれてきました。
悪戯をして叱られると、その暗い小屋にとじ込まれました。とても怖かったのも今は懐かしい!
石炭ストーブのあの暖かさ、湯を沸かしたり、焼き芋やスルメを焼いたり…そんな時代がありました。(メガネさん)

小学生の時に重松清さんのカシオペアの丘でという小説を読んだ時に、炭鉱が出てきて炭鉱というものを初めて知りました。そちらも(確か)北海道が舞台でした。炭鉱には色々な物語があるだろうなとは思うのですがそれでもまだ知らないことが多く、勉強していきたいです(もちこさん)

子供の頃小学校、中学校はコークスのストーブがありなかなか暖まるまで時間がかかり、教室が寒かったのが思い出されます。将来暖房機器がこんなに進化するなんてその頃は思いませんでしたが、ストーブを囲んでみんなで手をかざして暖めたのが懐かしく感じられます。(ぶーちゃんさん)

小学校は、石炭ストーブで、近いと熱いし、遠いと寒い。
給食の瓶牛乳を温めて飲みました。(雪桜さん)

私の生まれた所は、三笠市の幌内と言うところです。場所は、山間にあり
炭坑住宅街がひしめくようにあり
ました 。炭坑全盛時には、数字は
はっきりしませんが、かなりの人が住んでいました。社員や鉱員の人は
石炭が無料で配布されていました。
燃えた石炭の灰を「あく」を投げるのが、子供心に辛く焼き付いています。
只、今思うと街全体が活気があったように思えました。(ふじふじさん)

幌内は全盛期100軒を超えるお店があったそうですね 今は多くの地区で居住者が0人になっています

今はマンション暮らしで都市ガスのFF式ストーブですが、子供の頃を思い起こしてみれば冬はカマダの石炭ストーブでした。煮炊きもできるし、ストーブの回りが真っ赤になって怖いくらいでした。
玄関脇に石炭小屋があったのも、懐かしく思い出しました。(麻生人さん)

父が蒸気機関車の機関士で、運転席に乗せてもらった事が有りました。
真っ赤に燃える釜の石炭が印象に残っています(rieさん)

鉄道ファンがうらやむ貴重な体験です!

父が住友奔別炭鉱で働いていましたので私は三笠市幾春別生まれです。閉山で札幌に越してきましたがお墓が三笠市弥生に有り毎年墓参りに行っていました。今も住友奔別炭鉱のて立て坑が残っていますが老朽化で保存も難しいとは思いますが、是非とも赤平の立て坑と一緒に保存して欲しいと思います。(キックさん)

父が炭鉱で働いていました。3交代制で生活のリズムが大変だったと思います
子供のころは石炭小屋から石炭ストーブの近くの石炭入れに運んでいました
冬は石炭小屋の石炭が凍っていてつるはしで砕いていたのを思い出します
アク捨てもしてましたね
今思えば石炭のある生活が懐かしく思えます(むら5さん)

子供が小さい時に遊びに行った、夕張の『石炭の歴史村』が忘れられません。(かえるさん)

石炭で汽車も走っていましたね。中学校に石炭ストーブありましたね。石炭をくべるとか、そんな言葉も懐かしいです。(ふくさん)

確かに「くべる」って日常で使わなくなりました

夕張の炭鉱記念館に家族で行ったことがあります。多くの人々が日本の繁栄のために、命をかけて働いていたことにあらためて心が動きました。今の豊かな生活があるのは、先人の苦労の礎の上にあることを忘れてはなりませんね。(ほくとべがさん)

かつての日本の発展を、炭鉱が支えていましたね。

私は釧路出身で、昭和40年代の子供時代は太平洋炭鉱が全盛期の頃でした。町内は90パーセント以上は炭鉱の人で、一番方、二番方など、今で言うシフト制で、学校帰りに遊びに行くとお父さんが寝ていたり、出勤を知らせるサイレンが鳴ったり、どの家の前にも石炭箱があり、我が家は灯油だったので、どんな仕組みで石炭がでてくるのか興味深々でした。いまは炭鉱もなくなり、心に残る風景だけが思い出です。(サリーさん)

今は「釧路コールマイン」となり、唯一残る坑内掘りの炭鉱となりましたね。

父親が炭鉱の労働者の息子で、当然、炭鉱の街の出身者です。私は違いますが、昔の写真を見ると炭鉱の街が賑やかだったことが伺えます。(くっしさん)

小学校のころ、冬になると教室の左前に石炭ストーブが設置されます。そのために座席の位置も変更になり、左側の列の前は、外れ席。暑くてボーッとしたり、時には窓を開けるとみんなに文句言われたり。危ないので、印から前にはストーブには近づけないのですが、授業中先生がストーブに石炭を入れながら調整してくれたり、お湯を沸かしてくれたり、濡れた服を近くにかけて乾かしてくれた思い出があります。(ターミーさん)

自分が小学生の頃、学校のストーブは電気ストーブでした。
ですが、定年退職間近の担任の話を聞いたところ昔は石炭ストーブで毎朝日直が当番制で貯蔵庫から石炭をバケツに入れて教室まで運んできていた。という話を聞いてとても驚いたのを覚えています。(山茶花さん)

石炭の思い出は小中学校時代ですかね。ストーブの前の席になると、暑くて大変だった。蒸発皿の中に牛乳瓶を入れて温めた思い出。当番でのアク投げは嫌でしたね。(pinkyさん)

蒸気機関車の力強い走りに感動したのを覚えています。(poitoさん)

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