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『昔、炭鉱があった。』
北海道の近代の歴史は、炭鉱を抜きに語ることはできないでしょう。ある時期、北海道はまさに石炭産業と共にありました。
私の石炭の思い出は小学校のときの教室のストーブです。道外の小学校でしたが、だるまストーブの燃料は石炭。たきつけ用の薪、新聞紙、石炭を取りに行くのは日直の役目。帰りの掃除のときの石炭の燃え殻の匂いは、今も記憶に焼き付いています。
きっと読者のみなさまは、直接炭鉱と関わりがあった方も多いことでしょう。炭鉱全盛のころ、街の様子はどんなだったのでしょう。
今年、石炭、鉄工、港湾の「炭鉄港」が日本遺産に制定された北海道。炭鉱や石炭に関する思いを、どうぞお寄せください。

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炭鉱で働いていた人は大変だったと思います。
汚れた空気のなかでの肉体労働は、大変だったと思います。(str777さん)

小学校から高校まで教室に石炭ストーブがあり、何故か私は石炭を取りに行く係をやりました。ありがたい事に席がストーブに近いので寒い思いはしなくてすみました。石炭のあくで玄関前に巻いて滑り止めにしてました。今は石油ストーブが使用が多い家庭がほとんどですね。エアコンを利用している家庭もありますが石炭のストーブは火力が強くて今の学生は石炭ストーブを見た事がない人が多いでしょうね。(フ゜レヒ゛ュシネマさん)

昭和53年学校を卒業と同時に以前歌志内にあった空知炭鉱・その後夕張にあった三菱大夕張炭鉱で働いた経験がありその後転職し平成19年財政破綻した夕張で働くことになりその衰退振りを
目の当たりにした際はショックでした。(ベンタカさん)

歌志内、夕張と、まさにその目で見られてきたのですね。ぜひ語り継いでいただきたいです。

小学校の教室のストーブは石炭をくべていた。(とらふくさん)

今も炭鉱の歴史が残る夕張や三笠に行きます。博物館などで歴史を学べる場所を残して欲しいです。(みるさん)

私は鉄道ファンでSLを見て炭鉱の歴史を知りました。昔の映画などでは真っ黒になって働く男の姿が鮮明に映し出されそこがとてもかっこ良く汗の匂いも感じとれるようでした。現在では利便性や環境問題で考えられない世の中となってしまいましたがキャンプするとき炭を使うとなんだかほっとさせられます。日本遺産に制定されたことがきっかけとなり人々がふたたび注目してほしいです。(るいるいさん)

忘れずに、記憶をつなぎたいですね!

小学校から高校まで教室のストーブは石炭でした。高校の時は、ストーブに乗っている蒸発皿で、ビンの牛乳やレトルトカレーを温めてお昼に食べました。蒸気機関車が走っていて、車内にだるまストーブがありました。行商のおばさんがスルメを炙っていた。懐かしい!(ばんびさん)

昭和46年に戸建を建てた時には、風呂釜が石炭使用で、車庫の隣に石炭の置き場所がありました。石炭の赤あかと燃える炎の色が一層暖かさを感じさせてくれて、熱い風呂が大好きな家族にとって、石炭で炊く風呂は格別の心地よさでした(フリージアさん)

小学校低学年まで教室が石炭ストーブでした。
冬のスキー授業の後はみんなで競い合うようにストーブの周りをかこんでいました。
アノラックを焦がしてよく母に叱られた記憶があります。(かなさん)

アノラックを焦がすのは定番ですね!

道内の学校ですが、まさに同じです。日直は朝、石炭を取りにいって火をつけました。当時の校舎は隙間だらけで、一度しもやけになったことがあるほど。でも、ストーブの近くは猛暑状態。そのくらいの火力でないと教室が温かくならなかったので。ストーブ近くの子たちの暑くて赤くなったほっぺが忘れられません。(ビビの父さん)

まだ生まれていない時期だったので、昔の話、歴史の話というか印象です。炭鉱が賑わっていた時の北海道を見てみたいなと思います。三笠市の高校生レストランに売っていた石炭クッキーがとても美味しいです!!!(ちくわさん)

三笠高校はレストランを運営していますね。 今度行ってみたい!

昔、炭鉱があり、それによりたくさんの雇用があった一方、それが原因で病気になった人や崩落で亡くなった人がいることも忘れてはいけない。(あんずさん)

炭鉱の町美唄で生まれました。
銭湯が無料だったと両親から聞かされて育ちました。いい時代だったんですね。(世界平和さん)

炭鉱と聞いたらやはり夕張ではないでしょうか?
昔の炭鉱の軌跡も残っていたはず!
当時を知りませんが歴史を感じます。(キューさん)

住んでいる所は炭鉱のまちではなかったが中学校のストーブはコークスでした。高校も石炭ストーブでした。使い終わったら灰を取って校舎裏に捨てに行っていました。近くのまちの炭鉱ももう閉鎖していましたし他の学校は普通の暖房でしたし家も石炭を使った世代でもなかったですが、学校が石炭ストーブで逆に体験できて良かったと思っています(masyoさん)

母が炭鉱の街に住んでいました。当時の活気を思うと懐かしいようです。(キイさん)

小学生の頃、祖母の家に行ったら、石炭ストーブでした。 ストーブの上で「するめ」を炙って食べたのを思い出します!(タカちゃんさん)

炭鉱によって栄えたものもあったが、粉塵による障害などあとに残る不要なレガシーもあった。(Pえにさん)

石炭は生活の中にはありませんでした。夕張の石炭の歴史村というテーマパークがありましたが、行く機会が無いまま閉園。美唄、篠津、芦別など廃坑になった炭鉱の再利用を考えてもらいたいです。(わかめさん)

炭鉱のお陰で北海道の街は発展したと思います。今でも残っている市で人口1万人未満の市は、炭鉱と石炭で一時期大発展をしていたのですね。炭鉱の町は、全道にあり、今では過疎化になって残念だと思います。私の石炭の思い出は、冬が来ると、石炭置き場から毎日バケツに石炭を入れて重い思いをしながら、今まで運んだ記憶があります。その頃は大変でしたが、今となっては懐かしい思い出です。(ヨコ母さんさん)

炭鉱がなければ、今の北海道もありませんね。

学生時代、実習で夕張に約1か月住んでいたがすでにその時は斜面に建てられた炭住はほとんど利用されていなかった。3年ほど前、夕張を訪れたが当時どこに住んでいたのかわからないほど変貌していた。(ウーサンさん)

これこれ40年前、札幌の幌南小学校で石炭ストーブでした!(コークスと言っていたけど、石炭とコークスって違うのかな?)ストーブの近くの席は顔が真っ赤になるほど暑く(というか‘熱く’)。蒸発皿の水もすぐになくなりました。今なら沸騰した蒸発皿が教室にあるなんて危険すぎですね(-_-;)(ああたんさん)

水がなくなって熱々の蒸発皿に水を足す瞬間が恐怖でした!

空知近郊は石炭産業が栄えた街。今でも石炭ストーブが我が家にあります。(MAKOTOさん)

余市ニッカウヰスキー蒸留所で石炭をくべているのを見るのが好きです。
(シュガッチさん)

私は石炭の町『赤平』に生まれました。家のストーブは 石炭なのが普通でした。自分では難しくて ストーブを燃やす事ができませんでした。石炭をストーブに入れる事はできましたが 燃やし始めが子供の私には難しいでした。小学校六年生で『閉山』になりました。学校から帰って遊びに行くのが自電車で石炭を積んだ『トロッコ列車』が通る橋を渡るのがとても怖くて いつも左右確認して渡るのを覚えてます。(toshicyanさん)

スイッチオンですぐ暖まる現代からは考えられないですね。今の子どもには無理でしょうが、当時の子どもにも難しかったようです…

子どもの頃、家の暖房は石炭ストーブでした。ストーブの部品が劣化してよく壊れるのがあり、寒い日ですと、朝から部屋の中がひんやりしており、とても切ない気持ちになった記憶があります。
(きたの旅人さん)

その頃を知らない私にとっては逆に新しい感じ…。(メロンさん)

石炭ストーブは着火するまで大変だった記憶が?
思いうかぶのは石炭飴。(氷下魚さん)

炭鉱の仕事は大変だったと思います(みーママさん)

夕張の石炭博物館がとても思い出があります。
道内にはたくさん炭鉱があったので、見に行きたいです。(つとさん)

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