10月のとある秋晴れの土曜日、一体の野外彫刻の周りに十数名の人が集まっていた。ふつうの鑑賞者と明らかに雰囲気が違う。手に手にブラシや歯ブラシ、バケツやぞうきんを持ち、ホースや脚立、ガスバーナーまで用意されている。帽子をかぶった男性の説明を聞きながら、彫刻にホースで水をかけ、ぞうきんでふき取り、ブラシで汚れを落としていく。
集まっていたのは、札幌彫刻美術館友の会(以下、友の会)のメンバーたち。帽子の男性は、野外彫刻の保存について研究している武蔵野美術大学彫刻学科教授、黒川弘毅さん。この道のエキスパートだ。この日は、札幌・宮の森にある本郷新記念札幌彫刻美術館で野外彫刻の保存に関するセミナーがあり、講義のあとに、同館にある野外彫刻を実際に清掃、保全した。本郷新(1905〜1980)は札幌生まれの北海道を代表する彫刻家で、この美術館は本郷を記念して1981年に開館した。
「彫刻に水をかけるのも鑑賞のひとつですよ。脚立に登って上から彫刻を見てみてください。楽しみながらやりましょう」と黒川さん。
この日は、同館の屋外に展示されている彫刻が清掃の対象となった。ホースで水をかけると、それぞれの彫刻で水のはじき方が違う。水を玉のようにはじくものもあれば、ぺたっと表面にはりつくものもある。
「同じブロンズでも、表面の仕上げやメンテナンスの状態によって、水の流れが違います。なんでもかんでもピカピカに磨き上げればいいというものではありません。作品の雰囲気を損なわないように気をつけることが大切です」と参加者に説明する。
いちばん時間をかけて作業したのは、本郷の代表作で同館のシンボル的存在でもあるブロンズ彫刻「わだつみの声」だ。本郷が、学徒出陣した若者の無念に思いをはせ作った青年の立像だ。1950年の作。開館当時から設置されているので、41年間野外にある。緑っぽく、緑青のような色合いだが、表面には縦に水の流れたような線が多く見える。
「これは条痕(じょうこん)と言って、表面に付着した大気汚染物質が結露によって流れ、作ったあとです。化学反応なので消すのは難しいのです」と黒川さんが解説する。
黒川さんによれば、緑色に見えるのは緑青ではなく、本郷の監修のもとで、完成した作品に鋳造所が塗った塗料であるという。意図的に、年月が経ったようなブロンズの味を最初から出したかったのだろうか。こういう新たな発見があるのも面白い。
友の会は、同美術館の開館と共にできた市民団体。設立趣旨には、「札幌彫刻美術館の事業活動の進展に寄与するとともに、彫刻美術の鑑賞・研究を通じて会員の教養を高め、もって彫刻文化の向上に資する」とある。現在の会員は約150名だ。
友の会が野外彫刻の保存活動を始めたのは、現名誉会長の橋本信夫さんが会長になってから。橋本さんは1997年から今年5月まで25年間会長を務めた。北海道大学の獣医学部の名誉教授だが、芸術全般に関心が高く、以前仕事でアフリカに住んでいたこともあり、アフリカの仮面の収集家としても知られる。
「友の会として、市民の我々がやることは何なのかと考えました。街中にこんなにたくさんある彫刻を市民の財産として共有したい。でもそれが汚れている、なんとかしたい。まずできることは掃除ではないか、という単純なことでしたね」と橋本さん。
だが、その掃除もスムーズに行ったわけでは無かった。彫刻が置かれた場所によって役所の管轄が違う。公園にあれば公園の担当部署。道路にあればそれが道のものなのか、各自治体の管理なのかによっても違う。美術館の庭だとまた管理者が違う。
「管理者を探して、『掃除してもいいですか』と連絡を取って許可を得なくてはいけない。それは面倒くさい作業でした」と当時を振り返る。
札幌市が管轄するものに関しては、15年ほど前に交渉が実り、現在は同市文化部が窓口となったことによって手続きはだいぶ簡単になったという。活動も徐々に認知され、清掃用品などを提供してくれるようになった。
友の会と黒川さんの出会いは、札幌の中島公園にある木下成太郎(しげたろう)像の清掃活動がきっかけだった。木下は黒川さんの所属する武蔵野美術大学の創設者の一人で校主(理事長)だった。その縁で、大学の同窓会から派遣されていたのが黒川さんだった。その後、専門家の立場から助言をもらうことで協力関係が深まっていった。
「個々の彫刻によって、自然に錆が出るのにまかせた方がよいもの、ワックスで表面を保護した方がいいもの、いろいろあります。ワックスは耐久性よりも、いつでも落とせるものであることの方が重要なので、みつろうを使います。作品のオリジナリティを損なわないよう保全することが大切なのです」と黒川さんは言う。
「友の会の活動は全国的に見てもすばらしいもの。これからは地元の学芸員とも協力して続けていって欲しいです」と友の会の活動を評価する。
この日の本郷新の彫刻の清掃には、美術館の学芸員も参加し、一緒になって彫刻を洗い、磨いた。同館館長の吉崎元章さんも学芸員だ。
「専門的な見地から判断してもらい、今日はやってみようということになりました。イメージがどれだけ変わるかちょっと心配なところもありましたが、いい感じで仕上がったと思います」と吉崎さんは言う。
わだつみ像の表面の筋は消えはしなかったが、清掃し、ワックスを塗った事により目立たなくなった。この日の清掃活動がきっかけとなり、美術館は11月3日、「洗って味わう彫刻のカタチ」という新しい鑑賞体験のイベントを行った。
友の会の活動は札幌にとどまらない。北海道内各地にある野外彫刻のデータベース「北海道デジタル彫刻美術館」を作り、ネット上に公開している。彫刻を写真に取り、作者や制作年、素材や来歴を調べて記録している。その数約4000点。その数にも驚くが、作者不詳の作品がけっこうあるのも意外だった。
メンバーがこつこつと入力して充実させてきたデータベースだが、札幌の広告代理店参栄が、このデータベースをもとにArt Naviというスマホと連携したサービスを開始した。国の補助金等を得てシステムを開発。札幌市内にある彫刻ならば、スマホカメラで彫刻を捉え、タップするとその作品に関するデータが現れる仕組みだ。誰でも無料で利用できる。きっかけは、同社の棟方悦子社長のヘルシンキでの経験に基づいている。
「街にある彫刻作品を見て歩いたときに、説明がどこにもなかったり、道に迷ったり、自分がどこにいるのか分からなくなるという経験をしました。これは札幌の街でも同じだろうと。きっと観光客も同じ思いをしているはず。すばらしい文化財を地元の人にももっと知って欲しい」と語る。
彫刻の外見とともに、橋本さんが指摘するのは彫刻を固定している素材の老朽化だ。
「ブロンズは何千年も持つ合金ですが、台座との固定金具が腐食や金属疲労をおこしていて倒れる危険もあります」と言う。黒川さんの協力を得て、札幌市にある野外彫刻台座に内視鏡を入れて調べ、交換に到ったこともある。黒川さんによれば、野外彫刻のメンテナンスを誰が行うのかは、日本でも世界でも地域によってさまざまだという。例えば山口県宇部市は彫刻のまちとして自らを位置づけ芸術祭を行うなど市が積極的に関与しているが、このような例は少数派だという。
もうひとつ、橋本さんが心配するのが、彫刻などの芸術作品の散逸だ。造成や移転などで、作品が行き場を失うこともある。
「だれもが無料で楽しめる芸術作品で市民の財産。関心が高まることで目を向けてくれる人が増え、野外アートをめぐるツーリズムなどにもつなげていければいいと思う」と語ってくれた。「市民文化は市民の手で。継続は力なり、です」。
(文・写真:吉村卓也)
※札幌彫刻美術館友の会は、誰でも会員になれる。オフィシャルサイトの問い合わせフォームから送信を。
※データベースは「北海道デジタル彫刻美術館」。道内にある野外彫刻作品約4000点のデータを閲覧できる。現在データの改正、追加を重ねており近く更新の予定。
※スマホのサービスは「アートナビサッポロ」。
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