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>HOME >特集一覧 >VOL.241「ふるさとの山を国立公園に日高山脈襟裳十勝国立公園が誕生 中札内と日高山脈」(2024年9月17日)
特集「ふるさとの山を国立公園に日高山脈襟裳十勝国立公園が誕生 中札内と日高山脈」の表紙の写真です

特集Vol.241
『ふるさとの山を国立公園に日高山脈襟裳十勝国立公園が誕生 中札内と日高山脈』

公開:2024年9月17日 ※記事の内容は取材当時のものです。

  とかち帯広空港から南へ、畑の中のまっすぐな道を車で走ると遠くに山が見え始めた。日高山脈だ。峻険な峰々が畑の向こうにせり上がり、大地を見下ろすように左右に連なっている。中央に位置するのが十勝幌尻(ポロシリ)岳(1846メートル)。アイヌ語で「大きい山」を意味する地名だそうだ。周囲の山々を従えて堂々とそびえている。
 日高山脈襟裳十勝国立公園が今年6月に誕生した。「ふるさとの山を国立公園へ」を合言葉に様々な活動をしてきたボランティアたちが中札内村にいると聞いてやってきた。日高山脈国立公園化PR事業実行委員会。十勝幌尻岳、ペテガリ岳など日高の秀峰を村のどこからでも望める住民たちが、国立公園化を目指した3年余りの活動とは。

実行委員会立ち上がる

 実行委員長の須賀裕一さんは、中札内村生まれの元消防士だ。旅行でいろいろな場所に出掛けて帰ってきても日高山脈を見るとふるさとに帰ってきたと実感するという。一番好きな山は十勝幌尻岳。冬の早朝に燃えるように真っ赤に染まるこの山がお気に入りで、自宅は「カチポロ」が一番良く見える場所に建てた。
2021年に村からの呼びかけで実行委員会が立ち上がった。20代から70代までの、農業、主婦、自営業、定年退職した人など9人が応募(現在17人)。移住者も大勢いた。年に7、8回程度集まって日高山脈を理解してもらうための講演会や写真展を開催してきた。村の全戸に日高山脈のカレンダーも配布した。
 たとえば講演会では地学の先生に日高山脈の成り立ちから話してもらった。プレート同士がぶつかったことにより急峻な山脈ができたとか、スプーンで削ったようなカール地形がなぜ見られるのか、日高山脈があることで「十勝晴れ」ができるなどの話をしてもらった。また普段登山している北大山岳部の部員に山の特徴や自然の厳しさなどを語ってもらった。
 またヒグマの生態や共存のための注意点を知床財団の職員に話してもらった。ヒグマの毛皮や骨に触るなど親子で楽しみながら学ぶ機会も作った。
 「長年ここに住んでいる人には、日高山脈の素晴らしさをなかなか分かってもらえない。自分たちが普段見ている山が、日本で一番大きい国立公園になる。こんな誇らしいことはない。まず村民に日高山脈のファンになってもらいたい」という思いで、須賀さんたち実行委のメンバーたちはさまざまな活動を進めてきた。
 そのメンバーたちを紹介すると--。

実行委員会の、左から阪村祐さん、入交さん、須賀委員長、久保田さん、木村さん。

移住へ誘った十勝の風景


 横浜から6年前に移住してきた自営業・梶山智大(ともひろ)さんと妻の千裕(ちひろ)さんも実行委に加わった。智大さんは、信州大の工学部大学院で機械システム工学を修了し、JR東海に入社。エンジニアとしてリニア新幹線の開発に従事した。時代の最先端の仕事をしているという自覚はあった。しかし「この仕事を定年まで続けるのか」という疑問がわき上がった。
 もっといろいろなことをしてみたいという気持ち、会社員という安定を捨てても何かにかけてみたいという熱情を抑えることができなくなった。大学院生の時、夏休みに北海道を旅行した際の十勝の美しい景色が忘れられなかった。
 その思いは絶ち難く妻にも相談し、夫婦で地域おこし協力隊として中札内村への移住を決断した。村に夫妻で観光振興プロデューサーとして採用された。その後、智大さんは会社を立ち上げ、札内川園地の管理を任されて、サイクリングツアーや札内川親子釣り教室などの企画、運営に当たっている。妻の千裕さんはソムリエとチーズプロフェッショナルの資格を取得、ワインとチーズの店を経営している。
 智大さんは日高山脈を模した雪山にアイスキャンドルを点灯するイベントに参加したのが印象的だった。「仕事を辞めてこちらに来て良かった。しばられるものが減り、自由になった」と日々の暮らしに充実感を感じている。

横浜から移住した梶山千裕さんと智大さん夫妻

眺めるだけの山もいい

  高橋智子さんは指導実習助手として中札内高等養護学校に勤務している。地元のコーヒー工房に協力してもらい、普通科の生徒たちと一緒に新しいブレンドコーヒーを開発した。生徒たちが意見を言い、工房の経営者がそのアドバイスを基に新しい味のコーヒーを作り上げた。名付けて「日高山脈コーヒー」。山脈のイメージ通りすっきり爽やかな味が自慢だ。いまでも学校の展示即売会などで販売され好評を博している。
 高橋さんの出身地は標津町だ。初めて中札内村に赴任してきた時、日高山脈がきれいに見える風景が、故郷の知床連山と重なって見えた。「山に登るのは難しいですが、裾野から眺める楽しみもあります」と十勝の景色に満足している。

好きな故郷のために何かしたい



  定年後に中札内村にUターンしてきた夫婦もいる。久保田義則さんと妻の美智子さんだ。義則さんは名古屋空港や仙台空港など全国の空港で総務や会計の仕事をしてきたが、故郷に戻ってきた。日高山脈の素晴らしい景色を子どもの頃から毎日見て育った。「本当のことを言うと都会で暮らすのはいやでした。好きな中札内に戻ってきたのだから、なにかに貢献したい」という思いで実行委の活動に夫婦で参加した。50代から夫婦で日高の山に登り始め、十勝幌尻岳、芽室岳、剣山などに登った。「ずっと地元だけにいたらきっと中札内村の自然の素晴らしさは分からなかった」と話す。実行委の仕事は、多くの人に中札内村を知ってもらうことなので、「楽しくて仕方がなかった」と振り返る。
 奈良県から移住してきた木村千秋さん、三重県からきた入交(いりまじり)裕子さんは、いずれも娘が帯広畜産大に入学したことなどがきっかけで、約20年前に中札内村に家を購入した。どちらも時間的に余裕ができたことで実行委に参加した。「人とのつながりができて、楽しかった。日高山脈が国立公園になり、豊かな自然が保護されるのは喜ばしい」と入交さん。

国立公園化が決まり、記念セレモニーで使うバッジの準備をする実行委員会のメンバー。



  

北海道大学山岳部も協力

  また北大山岳部も実行委員会の活動に協力してきた。部員が日高山脈に登る際、360度カメラをつけて風景を撮影した。その映像は村の観光協会のホームページにアップされている。また村の子どもたち向けにキャンプ教室も開いてきた。
 今年8月に村で開かれた国立公園化のお祝いイベントでは、今年の春、日高山脈を19日間かけて一人で全山縦走した山岳部OBの中川凌佑(りょうすけ)さんが講演した。日高山脈の魅力について「稜線が果てしなく続き、人を寄せつけない山の奥深さがあるところ」と話す。「自然が自然のまま残っているところが素晴らしいので、国立公園化しても過度な開発はしないようにしてほしい」と願っている。

ここに宝がある、と認められた

実行委の活動は報酬が支払われないボランティアだ。「お金をもらわないからこそ自由にできる。もし有償だとしたらいろいろ算盤をはじかなくてはならない」と須賀委員長は強調する。「日高山脈の当たり前の景色が素晴らしい。そこが国立公園になるのだから、全国にPRするのは当たり前。子どもたちにここに住んで良かったと思われる地域作りを続けていきたい」と話している。
 村では今年8月を「特別な1カ月」として、中札内文化創造センターで日高山脈関連の写真やパネルを展示、村民祝賀会も開いた。 
 森田匡彦村長は、日高山脈が国立公園になったということは「ここに宝があると認められたということ」と強調する。実行委の活動について、「たいへん有り難い。住民のがんばりを応援する村でありたい」と話している。

中札内村の森田匡彦村長

(文・写真:朝日教之)

日高山脈襟裳十勝国立公園とは
日高、十勝の13市町村にまたがる日高山脈襟裳十勝国立公園が今年6月に誕生した。公園区域は日高山脈と襟裳岬周辺までの24万5千ヘクタールあまりで国内最大。北海道の背骨といわれる山々が南北140キロに渡って連なる。氷河に削られ、U字形の谷になった「カール」地形など独特の景観があり、国の天然記念物シマフクロウをはじめ希少な動植物の宝庫として知られる。国立公園の指定は全国で35カ所目、道内では7カ所目。日高山脈の山は険しく、一般の登山客が登るには難易度が高い。国立公園に指定されたからといって、初心者が観光目的で安易に入山するのは危険だ。

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ここからは特集に関連して会員の皆さんからよせられたコメントをご紹介します。

投稿テーマ
『ふるさとの山』
関東平野で育ちました。山は見えませんでした。ごくたまに、冬のよく晴れた日に遠くに富士山が見えるくらい。
でも「ふるさとの山」とは言えません。だから、「山が見える場所に住みたい」と、いつも思っていました。
札幌に住むようになり、念願が叶いました。毎日藻岩山が見えます。手稲山も見えるし、名も知らない山もたくさん。天気がいいと尖った恵庭岳もよく見えます。
いつもそこにある「山」。これがふるさとの山というものなのでしょうか?
みなさんのふるさとの山はありますか?
ふるさとの山の思い出、どうぞお聞かせください。

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ふるさとの山は藻岩山で、小学校のときスキーをしに行った思い出があります!(りょうさん)

十勝連峰です。
自分の部屋の窓から見えた山は冬には稜線までくっきり見え、晴れた夜は山に流れ散る星にその場限りの願いごとを祈る。。。思えば贅沢な景色でした。(ひめいちさん)

学校の窓から見える山の景色が好きでした。
授業中に窓から山を眺めながら、雲の流れや天気の移り変わりを見るのが日課だったので懐かしいです。(るりこさん)

海も山も近くには無いですが?!山が好きで特に日光いろは坂好きです!!(machandctさん)

夜景が綺麗な山が近くにあります。
家族で行ったのが思い出です。(あかりさん)

藻岩山です。実家の窓から見えるスキー場のライトでゲレンデが見え、スキーが上手になりたく、仕事終わりに練習をして、明日も仕事と練習の青春時代を送った楽しい思い出。(ヒロコさん)

小学生の頃の遠足は公園か山登りの2択でした。当時は険しいと思っていた山道も、久しぶりに登るとあっという間に到着しました。
趣味で登山をしている友人がいますが、最近膝の痛みがあるので、私は遠慮しています。(ゆかさん)

故郷の山と言えば「臥牛山」です。関西に来てからも六甲山などの夜景もありますが函館山の夜景が一番です。観光客だらけではありますが悩み事や心が晴れない時は臥牛山に登って耽っておりました。年末に家族全員陽性になり帰省出来なかったので紅葉の時期に子供と函館山の頂上からの景色を見て英気を養いたいです。(KANTON$さん)

小学生の時、親の仕事で福岡県飯塚市の都会から筑穂町という田舎に引っ越した。そこは360°見渡す限り、山。正直、とまどいもあったが、都会から引っ越してきた事もあり、ちやほやされた。僕の唯一のモテ期が、小学3年生の時である。その山しかない田舎も、親の離婚で都会に引っ越した。母親は田舎と義理の親と喫茶店経営にストレスを抱えていた。こうして、僕の田舎暮らしは幕を閉じた。大人になった現在、海より山派です。(しんやさん)

夏休みに実家から1時間ほどの渓流の流れる山のキャンプ場へ何度か行き、涼しく楽しく過ごした。(Chicagoさん)

毎年キャンプに行った時に見える、みどり緑したとても大きくて綺麗な山。夏が来たなと感じられるし、今年も家族みんなで来られたなと思える素敵な山です。(あやのさん)

和泉市で育ち小学生のころから窓の向こうに和泉山脈を眺めてます。
子供のころはよく授業中に山を眺めては空想を繰り返していました。
いまは泉大津に住まいしておりますがいまも和泉山脈は変わらずそこにあります。
あの頃と変わらない景色で。(さおりさん)

子供の頃は栗とか栃の実とか採ってました。(ヤロメロさん)

ふる里の山ではありませんが、転勤で釧路勤務をしていた頃の思い出です。天気の良い日に国道から観えた雄阿寒岳と雌阿寒岳がとても綺麗だったことです。雪の残った春と空気の澄んだ秋どちらも絶景でした。ぜひもう一度観たいと思っています。そうだ春の羅臼岳も良かったなぁ。(虎ファンさん)

秩父(Jamaさん)

私のふるさとの山は豊平川を通る時に見る山です。豊平川は都会の中にあるのにぼーっと歩いてるといきなり山が出てきていつも少し驚きます。その日家に帰ると心が落ち着いた感じがするので、ちょっと出かけた先に山が見えるのはいいことだなあと思いました。(ちかさん)

北海道の山の中で生まれました。育った場所は山の麓。現在住んでいるのは、ほぼ平らで最高峰でも高層ビルより低い。ふるさとの山は人口が減り、本当の自然に帰ろうとしています。鹿や熊にとっては住みよい環境になったのかもしれません。(takahideさん)

昔、むかし恵庭岳ジンギスカン・ツアー挙行!!

自転車で目指し、その日帰りで、ジンギスカン・ガス・野菜等荷台に括り付け食べに登りました…

白扇の滝越え、漸く恵庭ダム湖に到着

足腰ガタガタとなりました…

山は無理、退却しました…

ヘトヘトとなりました…




(けんじさん)

室蘭市にある、楽山(らくさん)という小さい山がそばにあり、
日頃から登って遊んだりもしていましたが、一番の思い出は、
初日の出を見るために、元旦早朝に登って、太平洋からの初日の出を拝んだことです。(きたじんさん)

私は江戸っ子です
大田区から富士山が見える
三浦半島からも富士山が見える
江の島でも鵠沼でも見える
だから富士山が故郷の山
(かおりさん)

私は藻岩山を見ながら育ちました。結婚して札幌を数年『留守』にするまで、毎日藻岩山と一緒でした。子供の頃は高い建物がなかったので、近くの公園からテレビ塔や藻岩山の灯の手前に豊平川の花火が見えていました。免許を取ってからは夜景を見に車で観光道路を何度も走りました。今は遠くまで広がる宝石の様な灯りや、列をなす高速道の灯を楽しんでいます。大好きな藻岩山ですが、残念ながら今我が家からは見えません。悲しい…。(おそのさん)

農家の実家の近くに名もない山がありますが、あの山の雪がいついつ溶けたら今年は豊作だとか、不作な年になるとか、亡くなったじいちゃんがよく言っていたなぁ…。(あささん)

ずっと首都圏に住んでいたので、定年後は山と海に囲まれた小樽でゆっくり暮らしたいと思っていました。故郷小樽の山と言えば天狗山、今住んでいるマンションから見える天狗山の四季の移り変わりは素晴らしいです。夏にはバルーンが上がり、花火大会もあります。冬は一面雪景色となり、斜面を滑るスキーヤーの姿も小さく見えます。また私は、夏の間は、天狗山の麓の市民農園で野菜作りを楽しんでいます。(ノブリンさん)

東京都で生まれ育ち山は身近に感じてきませんでした。
長期の休みに札幌に祖父母の家に来ると自転車で行けそうなくらい山が近いと思いましたが大人になって実際に住んでみると自転車で行くには遠かったですね(笑)
子どもが生まれ夏はピクニック、冬はスキーに山に行くようになりなんだか身近になってきました。(ちえみさん)

子供の頃(50年前くらい)は10分も歩けば裏山があり、夏になれば虫取りや秘密基地巡りなど一日中遊んでいた。
今はすべて住宅地になり、面影も残っていない。(みみままさん)

標高160mの気軽に登れる地元の山、近隣の小中学生なら何度も遠足で訪れる人気のスポットです。(よつしーさん)

千葉県君津市小香にある三船山。故郷に帰れば必ず登る。展望台からの景色はまさに壮観なり。(りゅうきさん)

30年前就職して初任地が倶知安でした。それから4年間毎日羊蹄山がある生活でしたがすっかりご無沙汰です。麓の町はすっかり変わってしまいましたが、今でも大好きな山です。(たくさん)

江別うまれで江別育ち。高校が小高い丘の上にあったものですから、藻岩山あたりの札幌方面の山々が授業そっちのけでボケェ〜っと見てました。
先日、北大植物園前の『かでる2、7』10階で試験があったので藻岩山方面を見渡せる研修室からの秋の山並みは最高でした。昼頃の澄み渡った青空のもと、紅葉ではなく青々とした木々がマリモのようで美しかったです。タワーマンションでも高層階に住んでいないと味わえないでしょうね。(サッちゃんさん)

浅草生まれ浅草育ち。
山といえばはるか遠くのものでした。
最初の山の記憶は、家族で朝早く起きて、新宿始発の電車で出かけた奥多摩のハイキング。
幼かった私は、駆け上り駆け下りて、親が追いついてくるのをじれったく待ちました。
帰りも電車でしたが、グッタリとしてどうやって帰宅したのかほとんど記憶にありません。引きずられるようにして帰ったのだと思います。
翌日の小学校もずっと居眠りだったそうです。(たかしさん)

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