不定期シリーズ「住めば都」。今回は十勝北部に位置する上士幌町を訪れた。北海道の中でも早くから移住政策に取り組んできた自治体だ。
初夏を思わせる十勝晴れの空の下、表紙の写真を撮るために集まってもらったのは道外から上士幌に引っ越して来た人たち。場所は移住を希望する人たちのために町が作った体験住宅の前だ。家の前には牧草地が広がり、遠くには山並みが見える。
表紙写真左端の男性は松盛竜也さん。上士幌町役場職員で兵庫県姫路市出身だ。妻が上士幌町出身。以前勤めていた会社から転職を考えたとき、地元姫路の公務員になるか上士幌の公務員になるかを考え、後者を選択、試験を受けて採用された。現在の姫路市の人口は約52万人、上士幌町は約4800人。人口で約100分の1の自治体を選んだ訳は?
「妻と一緒に何回か帰省しているときに募集があって応募しました。転勤のない仕事に就きたかったこともあり地元姫路も考えましたが、自分が地域に与えられる影響を考えると、小さい町の方がよいかなと思いました」と語る。
隣は井田純子さん。同町のNPO法人上士幌コンシェルジュで、「かみしほろ暮らし担当マネージャー」を務める。道内市町村の移住の窓口は自治体の担当部署が担うところがほとんどだが、同町はこのNPO法人がワンストップの受付窓口となり、町と連携しながら移住希望者へのサービスを提供している。同町のネットショップやふるさと納税なども扱う。
大阪出身で神奈川県で約20年仕事をした後、5年前に移住した。前職を辞めると決めたときに、上士幌町の「生活体験モニター事業」の存在を知った。冬のニセコに何回か来ていて北海道への憧れはあったが、上士幌は知らない土地だった。
町は、移住を考えている人たちにまずは現地での生活を体験してもらうための体験用の住宅を用意している。1週間〜1カ月の短期向けが4棟、1カ月から1年の長期向けが6棟ある。希望者は申込書類を提出し、町は移住に対する真剣度等を審査して受け入れを決める。体験者は家賃を負担する。
井田さんは長期で1年暮らした。滞在初期には観光も楽しみながら、仕事を探しているうちにこの仕事に就く事になった。
「関東にいたときは仕事でたくさん人と接するのでそれで終わってしまう。ここではこちらから関わろうとしないと本当に1人になってしまう恐怖がありますね。人とつながればそれだけ情報が来る。『もっと若かったら移住したい』という人もいます。移住するなら若いうちに来た方が面白いと思いますが、そんなに心配することないですよ、と言ってます」という。
井田さんの隣は岐阜県出身の荒井理恵さん。夫の仕事の関係で来てここに落ち着いた。その隣、開沼尚美さんは千葉県出身。同町糠平湖にあるタウシュベツ川橋梁が好きで何度も通っていたが、生活体験を経て移住した。右端の鈴木亜有子さんは兵庫県出身。夫が地域おこし協力隊だったが、任期終了後に町に残った。3人は井田さんと同じ職場で働く仲間だ。同NPO法人は「かみしほろ情報館」という建物に事務所を置く。移住を含め、いろいろな相談事に人がぶらりと訪れることができる小さな建物だ。
同法人職員で情報館の事務長を務める綿貫光義さんは上士幌出身だ。役場勤務を経てこの仕事に就いた。
「私が役場に入った昭和50年代、人口は1万人以上いました。当時は移住する人なんていなかったですね。今は若い方が多く移り住んでくれるようになりました」と語る。
情報館で話をしていると、ぶらりと女性が入ってきた。3月から生活体験で滞在中だという。大阪から来ている大喜多美奈子さんだ。聞けば、もう移住を決めたという。上士幌との縁は、息子さんが農業を志して上士幌高校に進学したことだった。何度か来ているうちに馴染みの町となった。
「そうでなければ知らない土地。でもここは便利なので引っ越すことにしました」という。「便利」という言葉がちょっと意外だった。どこが便利なのだろう。
「ペーパードライバーですが、ちょうどいいところに何でもあるので車の必要性はあまり感じません。郵便局も病院も、どこに行っても混んでいなくてすぐ済み、待ち時間のストレスがありません」と話す。さらに89歳と85歳の父母も移住したと聞いて驚いた。
「大阪では父は施設に入っていたのですが、ここだと部屋にも余裕があって在宅で介護できる。身の回りの事ができるなら自宅で暮らせますよ、とケアマネさんに言われて気付きました。母はまだ元気なので1人で病院にも行くし、生涯学習センターのエッセイ教室に通ったりしています」。夫はまだ仕事があるので大阪にいるが、退職したら引っ越してくる予定だという。
定年退職後の移住の例として井田さんから紹介されたのが今年66歳になる伴公夫さんだ。東京でのサラリーマン生活を60歳で終え、4年前に移り住んだ。現役のときは朝6時に起きて終電で帰るような生活。日本のメーカーが海外進出するときに現地リスクを調査する会社に務め、訪れた国は約80カ国。定年の3年くらい前から、移住計画を立てリサーチを始めた。自然の中での生活がしたくて北海道を選択。東京・有楽町にある相談窓口「ふるさと回帰支援センター」にも何度も通い、考えた末に選んだのが上士幌町だった。決め手となったのは雪の少なさだったという。
現役時代から写真が好きで、写真集出版の経験もあり、今も写真を撮っている。町営住宅で一人暮らし。車は持っていない。どこに行くにも折り畳み自転車だ。この自転車で帯広までも5時間かけて行く。同町の観光名所、標高800mのナイタイ高原牧場の展望テラスにも行く。最後は約8キロの上り坂が続くが、「最近はノンストップで登れるようになりましたよ」と涼しい顔だ。
「同年代の人の多くは定年後の再雇用が多かったですね。私も話はあったのですが断りました。残された時間も限られていますから好きな事をしようと思いましたね」と話す。
「積極的にコミュニティに入るようにしています。文化的なものが無いなどと言いますが、無ければ自分で何かやればいいんです」。実際に、自分の写真展を企画して音楽家とコラボしたり、そこで好きな紅茶を振る舞ったりした。「東京にいたときより友達が増えましたよ」と笑う。
上士幌はこじんまりとまとまった町だ。町中に目新しいホテルがある。2年前にオープンしたカミシホロホテルだ。支配人を務めるのは島田裕子さん。東京からの移住。地域おこし協力隊を経て腰を落ち着けた。2人いる子供の子育ても移住の大きな理由のひとつだ。都心での子育ては保育園も入りにくく、子供を預けるところがなければ仕事もできなかった。ビルの谷間のような公園でのびのびできない、いっそのこと環境を変えたいと思い移住体験ツアーに参加し、この町を知った。見た事もない景色、働き方も違う。自分の知らない事が多いと感じた。ここでは基本的にこども園の待機も無く、そして無料だ。上の子は小学生になったが少人数クラスだ。町が独自に教員を増員し少人数での教育を実現している。
小児科は無いので何かあれば音更の病院まで行くが、「時間で言えば東京のときと変わらないかも。それほど不便は感じていません」と語る。
積極的に移住者を受け入れる政策は北海道庁が音頭を取って始まったが、これにすぐに手を上げたのが竹中貢町長だ。当時は団塊の世代が定年を迎える2007年問題が言われていたころ。第2の人生は都会を離れて北海道で、というのが当初の狙いだった。北海道移住促進協議会が14市町村で発足したのが2005年。当時の会長は函館市、副会長が小樽市、伊達市、上士幌町だった。その後竹中町長は2010年から会長となり、同協議会が2020年に一般社団法人北海道移住交流促進協議会となって153市町村が加盟する現在まで13年間会長を務めている。
「地方の魅力を作っていかなくてはいけない。移住、定住のターゲットは東京。現に首都圏から来る人が増えています。東京は時間を超越した眠らない町。ここは時間と共に生きるスロータウンです。お互いに生き方が違うが、必ず引きつけ合うと思います」という。
「人口が減り高齢者が増える、情報化社会になる、これはずっと前からわかっていたこと。問題は対策をやるかやらないか。徹底した支援策を講じて来ました」と話す。
「仕事で北海道に来る人に単身者が多いのはなぜか。医療や教育の心配があるのでしょう。ならばその心配を取り除こうと思いました」と竹中町長。
高校までの医療無償化、通院のためのタクシー補助、こども園の無料化、小学校の少人数教育も実現した。高齢化と人口減で人手不足になるのを見込んで、自動運転バス、無人コンビニ、ドローンによる物流実験、仕事と遊びを両立させるワーケ−ション、行政サービスに24時間答えるAIチャットボット導入等、この小さな町で行われていることは世の中の先端を行っているものが多い。
上士幌コンシェルジェができたのは2010年。これも「これからはNPOがコミュニティの軸になる」という考えがあってのことだった。「社会をつなぐ核としてのNPOです。町内会やコミュニティが希薄化する中で、極めて社会性の高い活動です。人口減、地方交付税の削減によるサービスの低下をどう補うか。お互いが助け合い協働する町でありたいと思っています」話してくれた。
さて最後に、上士幌と言えば「気球の町」として有名だ。半世紀の歴史があり、北海道バルーンフェスティバルは今年で50回目の記念大会となる。8月10日〜13日まで全国から集まる熱気球が十勝の空を舞う。大きく注目を浴びる大会だ。気球が舞う空の下、そこには今回紹介しきれなかったたくさんの新しい住人たちが暮らす。
(文・写真:吉村卓也)
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