札幌から一路北へ。JRなら宗谷本線で名寄まで行き、バスに乗り換えて20分。高速なら道央道を終点の士別剣淵で降り、名寄を通って下川町に着く。約3時間。内陸の町、東京23区と同じくらいの面積があり、その約90%が森林だ。現在の人口は3000人弱。かつて1960年のピーク時には1万5000人強だった。北海道の地方にある町村と同じように人口減と高齢化が進んでいる。
7年ほど前から町が本腰を入れはじめたのが移住政策とタウンプロモーションだ。「移住コーディネーター」という肩書きを持った、移住専門の町のスタッフも人いる。
10月上旬の金曜日の夜、町のまちおこしセンター「コモレビ」に三々五々人が集まって来た。人口減と高齢化というイメージとは違い、若い人が多い。今日は月に一度の恒例行事「タノシモカフェ」という交流会が開かれる日だ。
この日集まったのは約40人。「一品持ち寄り」がルールで、持って来た食べ物や飲み物は参加者みんなでシェアできるように窓際のテーブルに並べられる。参加費は無料だ。あちこちでにぎやかな談笑の輪が広がる。堅苦しいものは何もなく、好きな席に座り、しゃべって食べる。多くの人と話せるように、途中、席替えを何回か挟む他は、歓談の時間だ。集まっている人たちの中には、移住して来た人もいれば地元の人もいる。
会場で進行を仕切っていたのは、同町移住コーディネーターの立花祐美子さん。下川町産業活性化支援機構タウンプロモーション推進部という組織に所属している。人口減少を食い止めるため、町と農林商工や観光の団体が協力して2016年に作った組織だ。自身も20年前に札幌から下川町に来た移住者だ。
そもそも7年前にこの会合を発案したのが立花さんだ。
町に残りたかった移住者が孤立して町を去っていくのを見て、「誰もが入れる場所があればいい」との思いから始めた。当初の名前は「移住者カフェ」だったが、「移住者に限定する必要はない」と思い直しすぐに名前を変えた。立ち上げ時こそ人集めに苦労したというが、それ以降は毎回30〜50人程度が参加するようになり、今は人集めに苦労することは無いという。
20年前に移住した立花さんがいちばん苦労したのが家探しだった。当時同町には移住政策は存在しなかった。
「結婚を機に移住したのですが、住むところを探すのに本当に苦労しました。今移住する人が羨ましいです」と語る。
立花さんが羨む家探しのサポートは、同町に2人いる「空き家コーディネーター」が担う。小さな町や村で家探しが大変なのは、不動産屋がないからだ。自治体の窓口が情報を発信することも多いが、かゆいところに手が届くような情報はなかなか見つからない。2人のコーディネーターは常に町内の物件の情報を「足で稼いでいる」という。高齢になったので家を手放したい人がいる、引っ越しを考えている人がいるので空きそうな物件がある、という情報を事前につかんで、売りたい人、買いたい人、貸したい人、借りたい人のマッチングを行っている。小さい町ならではで、町内の空き家の動きはほぼ把握しているという。
タノシモカフェにも出席していた石田賢二さんも空き家コーディネーターのサポートを受けた。38年間公務員として東京都大田区で働いていたが、定年の少し前に退職し、移住した。実際に移住する前に約2カ月間住んだのが、同町がNPO法人に委託して運営する貸家、下川町地域間交流施設「森のなかヨックル」だ。1戸建ての住宅が10棟あり、誰でも1泊から数カ月に渡って利用することができる。体験住宅ではないので、旅行者でも使える宿だ。
「毎年のように北海道に旅行していたが、いつかは暮らしたいと思っていました」と石田さん。札幌、旭川、帯広といった場所も考えたが、大きな都市は特に移住者に対して積極的アプローチがなかった。ネットで探しているときに、下川町の情報があった。「しばらくお試しで住めるところがありますよ」と紹介されたのが「ヨックル」だった。
昨年の4月に来て、とりあえず暮らしてみた。1カ月いて違うところを見てみようと思ったが、「これからいい季節なのにもう帰るの?」と言われて延長。そうこうしているうちに地域で友達もでき、移住コーディネーターからも勧められ、一度東京に戻ったのちに移住を決意。マンションも処分し、昨年の9月に移住した。
石田さんは視覚に障害があって車の免許が取得できないが、自転車や歩きでほぼ事は足りるという。現在は町営住宅に住んでいるが、移住者が苦労する住宅問題を解決するための事業を興すことを計画中だ。
山梨県から移住した菊島永詞さんは、酪農家を志して下川町にたどり着いた。地元の山梨で場所を探していたがなかなかよい物件が見つからず、酪農の盛んな北海道に目を向けた。目ぼしい自治体に電話をかけて調べていたところ、下川町役場から町にある牧場が高齢のため経営を譲りたがっているとの情報を教えてもらった。
ネットでさらに調べていくと、この牧場も元は移住者で新規就農だったことを町の移住者インタビューで知る。その他にも町の情報がたくさん発信されていて、「がんばっている町という印象がありました」という。
11月から正式に経営を継承する。60ヘクタールの牧場に牛42頭がいるが、もう少し増やしたいと語る。
新規に起業する人もいる。「合同会社しもかわ森のブルワリー」はクラフトビールの製造とパブの経営を行う。札幌で半導体エンジニアとして働いていた中村隆史さんは、「起業型地域おこし協力隊」の制度を利用して夫婦で2022年に移住した。 町内産のホップを使ったビールの製造も予定している。店はプレオープンし、すでに町の人たちが夜に集まれる格好の場所になりつつある。醸造免許の取得を待って、来年の1月頃には正式にオープンする予定だ。
下川町の移住者のパイオニア的な存在が、町でカフェレストランMORENA(モレーナ)を営む栗岩英彦さんだ。静岡県出身で、養蜂研究所に勤めた後、31歳から世界一周の旅を2回、日本一周の旅を1回経験した根っからの旅人だ。そろそろ日本に戻ろうと思い、たまたま名寄の友人に探してもらったのが下川町。1991年に下川町に落ち着いたので、もう住んで32年になる。
「私が来たころは若い人が下川に入って来ることなんてまずなかった。町も特に何もやってなかったし。最近はよく若い人が来るようになりましたね。そういう人は必ずここに顔を出してくれてね。時代は変わりましたね」
インドに滞在していたときに、ギターを教える代わりに村の人に習ったというカレーが自慢のメニューだ。仲間と手づくりしたという店はかつての農家だ。畑を作りながら、森の生活を送る。店にはファンが多く遠方から訪ねる人も多い。店が落ち着いていれば栗岩さんの世界の旅の話も聞けるし、ここで旅人同士が出会うこともあるらしい。
下川町は1980年に人口減少率北海道1位となるほど、深刻な事態だった。その後、町の存続のためにさまざまな試みが行われ、今日の姿がある。タウンプロモーション推進部ができてから、移住者は約170人を数え、コロナ禍以降でも20組以上が起業している。地域おこし協力隊の約7割が定着し、現在も14人が町で暮らす。これからも、どこからどんな人たちが町にやってくるのだろう。
(文・写真:吉村卓也)
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