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>HOME >特集一覧 >VOL.240「教育が人を呼ぶ 鹿追町の37年」(2024年8月20日)

特集Vol.240
『教育が人を呼ぶ 鹿追町の37年』

特集「教育が人を呼ぶ 鹿追町の37年」の表紙の写真です
公開:2024年8月20日 ※記事の内容は取材当時のものです。
鹿追町自然体験留学センター長の三反崎(みたざき)順也さんは子供たちからは「みたさん」と呼ばれている。センターで親元から離れて暮らす3人の留学生たちが学校から帰って来て「みたさん」を取り囲む。

  帯広から北西方向に約32キロに位置する鹿追町は酪農や畑作が盛んな町だ。大雪山国立公園の南の端、然別(しかりべつ)湖があり、十勝らしい大地の広がりの中にあるこの町は「過疎」に指定されている。そんな町に、30年以上続いている「山村留学」制度があると聞いて訪ねてみた。全国の小中学生が親元を離れ、1年間(延長も可)同町の瓜幕(うりまく)小学校、または瓜幕中学校に通う。

 留学生には自然体験留学センターという寮が用意されている。2024年度は男子4人(中学生1人、小学生3人)、女子2人(中学生)がいる。センター長は三反崎順也さん。「みたざきさん」だが、子どもたちは「みたさん」と呼ぶ。小学生男子が学校からセンターに帰ったのは午後6時過ぎ。3人は「みたさん、みたさん」とはしゃいでいる

ここでしか学べないことがある

 そうか、子どもは言葉を縮めて言うのが好きなんだ。そう思った最初だった。今どきに表現するなら「わちゃわちゃ」する4人。見ているほうまで笑顔になる。

 静岡県から来た川上陸さんと千葉県から来た鳥海裕貴さんが6年生、札幌市から来た道家悠月さんが5年生。ここに来て楽しいことは何?そう尋ねると、陸さんと悠月さんが「ジャベ!」、裕貴さんが「ライパ!」。どちらも初めて聞く言葉。やはり短縮されていた。

 「ジャベ」=ジャベリックボール投げ。やり投げへと導入するための陸上種目で、昔のソフトボール投げに代わる種目でもある。3人は火曜と木曜の放課後、瓜幕小のグラウンドで練習している。「ライパ」=鹿追町ライディングパーク。道の駅うりまくにある町の乗馬施設で、留学生に限らず子どもたちは週末に馬の世話や乗馬の練習をする。鹿追町の山村留学は「乗馬ができる」のも売りの一つだ。

 3人には困っていることも聞いたが、「別にない」と力強い。裕貴さんが正直に「朝が苦手」と教えてくれた。センターでは午前6時起床だ。起床後、風呂やトイレや玄関など共有の場所を掃除する。2人1部屋の自室は、日曜に掃除機をかけるのが決まり。夕飯は午後6時、8時から8時半は学習タイム、9時半消灯。電子ゲーム、スマホは禁止、学校支給のタブレットは持ち帰ってもいいが、事務室に置く。

 「この環境で体験してほしいことが他にたくさんありますから。テレビもありません。ボードゲームやトランプはあります。子どもたちは新聞紙を丸めてぶつけあったりして、勝手に遊んでますよ」と三反崎さん。大学卒業後、大手メーカーに就職したが、子どもに関わる仕事がしたいと教員資格を取得、瓜幕との縁はセンターでのボランティアからで、現在は鹿追町役場瓜幕支所係長でもある。

長野で始まり全国へ

 日本の山村留学は1976年、長野県八坂村(現・大町市)で始まった。「自然の中での体験に裏打ちされた真の学力を」という理念からだったが、「過疎地の学校維持」効果もあり、全国に広がった。NPO法人全国山村留学協会「全国の山村留学実態報告書」によると、2022年度に山村留学制度があるのは22道府県の64市町村。664人の小中学生が参加している。また北海道教育委員会のホームページを見ると、今年5月1日現在で道内の7町村9校が山村留学を実施している。

 鹿追町も、このままでは学校が維持できないという危機感を学校と地域が共有したのが出発点だ。鹿追町より1年早い1987年、道内トップを切って留学を始めた旧日高町千栄小・中学校は1998年に閉校。山村留学制度があっても過疎化は進む。

 鹿追町も人口は少しずつ減り、今年5月31日現在で4971人。ただし留学制度がきっかけで、町に移住してくる人たちも少なくない。17世帯40人はすでに子どもが卒業した移住家族、11世帯30人は小中学生の子どもがいる移住家族で、その家族の子ども14人は「留学生」には入らない。

 センターで暮らす留学のほかに「親子留学」もある。子どもの留学に親がついてきて、公営住宅などに住む。2024年度は5世帯(親5人、小中学生7人)。現在鹿追町にはセンター生6人と親子留学生7人、合わせて13人が留学している。彼らを含め1988年以来37年間で、町が受け入れた留学生は321人だ。

センターで暮らす留学生たちは年に数回「里親」のところに泊まる。先生達が異動しても、地元との繋がりを残すためだ。だから子供たちは卒業しても訪ねてくる。井出健一さん宅ではこの日、2人の留学生が2泊でホームステイ。にぎやかな夕食となった。

子どもの留学きっかけに親が移住

 娘の留学をきっかけに宮城県仙台市から移住してきたのは荒井裕次さん。2020年4月に中1だった長女の杜和さんが留学、22年には中1になった長男・奏介さんも加わった。センター受入式から始まり運動会、サマーキャンプ、文化祭など妻の美緒さんと瓜幕に通ううち、「山がどんとあって、空の青さが飛び込んできて、広~い風景を見ているうちに、結局こういうところが幸せなんじゃないかなと思うようになったんです」と裕次さん。

 昨年4月に美緒さん、仙台での仕事を継続する段取りをつけた裕次さんが7月に瓜幕へ。町営住宅をDIYしながら暮らしている。

 杜和さんは昨年、和歌山県の芸術系高校に進学したが、そんな進路を選んだのも留学したからこそだと裕次さん。瓜幕中は全生徒数が40人足らず。何かしらの役を引き受けざるをえないし、意見も言わなくてはならない。その経験が自信になって、「そこでないなら、もう高校は行かないというぐらい、肝が据わった子になったんですよね」

 子どもたちが偏差値競争から外れる不安はないかと尋ねると、AIの話になった。スマホやパソコンなしで仕事ができないのが今なら、子どもたちの時代はAIなしで仕事ができなくなる。そうなれば人間に必要なのはAIができないこと、つまり独創性や行動力だと思う、と。「だから五感を使っていろいろ体験することが大事だと思います。うちは宿題してると怒られるんです。それより外で遊んでこいって」と笑う。

 「町のいいところ」と思うのが、みんなが誰の子でも名前を呼び捨てにするところだ。最初は驚いたが、「認める」ことなのだと気づいた。存在が認められれば子どもの喜びになるし、自信につながる。親同士も「○○ちゃんのパパ」「○○さんの奥さん」などでなく、名前で呼び合う。すごく心地よいから、もちろん実践中だ。

 昨冬は瓜幕中グラウンドの天然スケート場で、子どもらに混じりスピードスケートに挑戦した。7月には町に伝わる「白蛇姫(はくじゃひめ)舞」に荒井家3人で参加した。「来てよかったです。何かをしない理由はいくつも見つかりますが、留学制度をきっかけに思い切れました」

ライディングパークで馬に乗る

 「ライパ」こと鹿追町ライディングパークには週末ごとに、29人の小中学生がやってくる。6グループに分かれ練習するが、「好きな子は、すきあらばやってきます」と町係長で指導担当の沖浩充さん。昨年、北九州から来た6年生は1年でかなり馬を走らせることができるようになった。

 そこまでいかなくても、「ライパ」大好きな子どもが多いのは、「最初のうちは、行けば友だちと遊べるくらいの感覚だと思います」。馬の乗り方は、手取り足取り教えない。走ってくれない、止まってくれないのは、馬にとって嫌なことをしてるからじゃない? そんなふうにアドバイスすると、子どもたちは試行錯誤する。そのうちにうまくいくようになる。一つ達成感を得る。その積み重ねで「ライパ」が好きになるのだという。

 10月の学習発表会では乗馬参観日もある。1人で馬を連れてきて、乗って、親を乗せて、引っ張る。親にも子どもにも晴れの場だ。

 留学センターの子どもたちには他にもたくさん行事がある。山菜採り体験、サマーキャンプ、スキー教室……。2泊3日の短期ホームステイは年6回ある。

 6月18日は2024年度1回目のホームステイ日だった。埼玉県から来た中学2年の畠山ひいろさんと、福岡県から来た中学1年の坂本友琉瑠さんが行ったのは、井出健一さん宅。手巻き寿司で歓待され、フルーツポンチのデザートを食べ、鹿追高校1年の次女・愛美さんと遊ぶ。

自ら里親となり生徒を受け入れ

 留学制度が始まったのは、50歳で亡くなった健一さんの父・順一さんが瓜幕中PTA会長だった時。校長とともに制度実現のために奔走、初年度から里親になった。これまでに預かった子どもは27人、健一さんは鹿追町瓜幕自然体験留学制度推進連絡協議会の副会長。

 74歳になる母・照子さんが、「山口県からの女の子を預かった時、娘と同じ部屋に住まわせて」と話しだした。3カ月くらいで2人が口をきかなくなったが、「担任の先生がうまく話してくれて、大人になってその子は結婚の相談を娘にしていてね、よい関係になったの」と照子さん。大人になってからふらっと訪ねてきた大勢の子の話、順一さんのお葬式に手伝いに来てくれた子の話……。健一さん、妻の理恵さんも加わって、留学生の思い出話に花が咲く。

 カリフォルニア大学バークレー校に入って国際弁護士になった子は、アメリカでの卒業式に照子さんを招いてくれた。外国で活躍する子はとても多い。照子さんがこう言った。「なんか怖くなくなるんじゃない。小さい頃に親から離れて生活すると」

長女が山村留学していたのをきっかけに仙台市から移住した荒井さん一家は町の公営住宅に住む。長女は卒業して道外の高校に通うが、今は弟が「地元の子」として中学校に通う。

探究教育、そして国際バカロレア

 教育関係で鹿追町が力を入れているのは、山村留学だけではない。鹿追中と瓜幕中、町内2校の中学が国際バカロレア認定を受けようと準備中だ。高校であれば国際的に通用する大学入学資格(国際バカロレア資格)を得るための制度だが、中学の場合はそうではない。「僕らは探究学習を進めることだと思っています」というのは渡辺雅人教育長だ。

 自ら課題を見つけ、いろいろな人と協議を重ね、解決を探っていく。それが探究教育で、文科省も新学習指導要領に組み入れた。バカロレア認定の基準を満たしていくということは、探究教育を深めていくことと渡辺さん。バカロレア認定への準備はとても大変で、先生方はすごく忙しい。それでも頑張っているのは、「先生方の心に、与えるだけの授業を変えなくてはという強い思いがあるんです」。

 8月から認定審査が始まる。認定されれば、鹿追への留学=バカロレア教育となり、相乗効果も狙える。と水を向けると、「もちろんPRはします。でも、教育は効果が出るのに時間がかかるものですから、そこは忘れてはいけないと思います」

 町が財政支援する北海道立の鹿追高校も2023年度から全国募集を開始した。現在10名の生徒が北海道外から在籍しており、教育のためにこの町に来るという動きに一役買っている。

 最後にもう一度、センター長の三反崎さんに登場いただく。どういう子どもが山村留学に向いているか尋ねた。答えは、「他人に左右されない子ですね」

 協調性も必要だが、それよりも自分の気持ちがぶれないことが大切だと三反崎さん。親の思いより、子どもの思い。「何をしたいのかはっきりしている子なら、ここはとてもいい場所です」

(文・矢部万紀子 写真・佐藤茂)

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ここからは特集に関連して会員の皆さんからよせられたコメントをご紹介します。

投稿テーマ
『転校』
子供の頃、転校生が来るとちょっとわくわくしたものです。
どうやって話しかけたかも覚えて無いけど、いつの間にか仲よくなってました。
転校生は時々来て、何年か経つとまた去って行く子も多かった。
かくいう私は、自分が転校生になったことは一度もなく、知らない土地で途中から学校生活を始める気持ちも、せっかくできた友達との別れも経験しないまま小中学生を過ごしました。
でも自分の子供にはずいぶんと転校を経験させてしまったのですが……。
転校、しましたか?
転校生の思い出、ありますか?
どうぞお聞かせください。

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小学4年生の時に中国から転校してきた女の子とすごく仲良くなり、毎日遊んでいました。両親がハーフでずっと中国で暮らしていたため、日本語はあまり話せなかったのですが、それでもたくさん会話もしていろんなことをして楽しんでいました。このままずっと仲良く・・・と思っていたのですが、お父さんの仕事の都合で急に中国に帰ることになり、土曜日の朝急に玄関先で挨拶だけして転校してしまいました。(みどりさん)

仲が良かった子が転校する時、あんなに悲しかったのにすっかり忘れてしまった。それを考えると急に寂しくなった。(カオリンさん)

中学2年の時、転校する友達に、クラスみんなでお金を出し合って万年筆を買ってプレゼントをすることになりました。

最後の日、クラスの代表の人がプレゼントした品は、包み紙がボロボロになっていました。せっかくのプレゼントなのに申し訳ないな思いました。

ポロポロになった理由は、買ってからしばらく日数が経っていて、その間、代表の人がずっと持ち歩いていたからでした。(もっくんさん)

私は父親が転勤族で、小学校は2回、中学校は1回転校しました。
転校する度に自己紹介するのがとっても恥ずかしかった思い出があります。
(キューピー姫さん)

私自身はずっと函館で転校の経験はありませんが小学生時関西からの転校生が浮いていて慣れない北海道弁に苦労してたな~と思っていたらその後中高も一緒で親友になりました。あほっていう関西弁新鮮でしたね。
昨年4月から我が子も私の転勤で北海道から関西に転校しましたが小学生の子供はすぐに馴染むものですが妻も私も関西人のスピードとノリについていけていません。たこ焼き屋・お好み焼き屋さんだらけです。(KANTON$さん)

小学校に入って直ぐに、転校生が来ました。私は引っ越しをしたことがなかったのですごく、羨ましかったです。でも、その子が小さい頃から何度も引っ越しし小学校に入り友達が出来たばかりで転校してきたと知りました。友達とのお別れはとても寂しいと言いました。私達は気があいとても仲良しになりました。2年生の終わりにその子が引っ越すと聞きとても悲しかったです。でも私達はずーと文通をして、還暦が過ぎた今も仲良しです。(さくら餅さん)

中学時代文武両道のクールな人が転校してきました。彼女は幅跳びで3メートル跳び一躍スターに。幼かった私はメラメラと嫉妬心、それをむき出しにしましたが、クールにかわしてくれて、50年以上経った今でも友達で来てくれてます。(ともこさん)

ずっと転校に憧れていました(ちあきさん)

転校一度もしたことがありません。
小学校の時、好きな男の子が転校してしまい、すごく寂しかった思い出があります。(あいこさん)

転校したことは無いのですが、
毎回転校生が来ると案内とかをする係になってました。
一時期は転校生に興味を持って、
みんな群がったりしますが、
興味がなくなるとあまり相手にされなくなる
転校生と、割と仲良くしてました。(えつこさん)

元の学校に戻った転校は歓迎された(ヤロメロさん)

炭鉱の町で育ちました。丁度閉山が相次いだ時期で、その度に閉山した炭鉱の町からの転校生が来ました。
私の育った街は大人になってからの閉山だったので、一度も転校する事なく今に至ります。(umeiponnさん)

転勤族で初めて転校したとき、全く馴染めなくて、友達ができなかった。(かほりさん)

小学生時代、転校してきた人が自宅のすぐ近くのお家の子だったこともありすぐに仲良くなり毎日登下校を一緒にする仲でした。
中学校以降では部活動が異なることから段々と疎遠となり、その後その子の親の都合でまた転校していってしまいました。当時は携帯もなく連絡を取る手段が今はありません。
元気にしているのかふと気になることがあります。(ゆうきさん)

転校は、自分では経験したことがありません。私の記憶に残っているのは50年以上前の小学校の入学式でのことです。期待と不安で始まった入学式、その際隣の女の子と手を繋いで入場しました。ショートカットでポンポンがついた黄色いワンピース姿に6歳の私は胸キュンです。翌日以降、同じクラスの彼女を探しても全く目にすることが出来ませんでした。事情は全く分かりませんが転校したようでした。淡い初恋が終了しました。(K太郎さん)

小学2年生 初恋の菊池君
四国に引っ越してしまった
50年も前の話(笑)(momomoさん)

転校生、いい思い出ありません
自分が上手くやっていけなかったんだけど
振り返りたくないな
(まめりんごさん)

私は、小学生になる時に引っ越したのでギリギリ転校生ではなかった?です。
でも、周りは全員知らない人でドキドキしたなぁ…「友達になろう」って言葉を言うのは緊張しましたね!(たぬちゃんさん)

転校してきてから、2日3日は、周りのクラスから自分を見に来て話題になったが、その後は誰も来なくなり、何ごともなかったかのように静かになった

(ことてつさん)

転校はしたことないが、転校生に話しかけた第1号になったことがある。
そのことについて作文を書き、その子の隣に「ちょっと太った女の先生」がいたと書いたら、実は転校生のお母さんだったと聞き、やっちまったぁと思ったのを40年以上経った今、「転校生」ときいて一番思い出すことである。(まりさん)

転校の経験はありませんが、クラス会や同期会のときに旧友から、転校してきた時君に随分助けられたと言う同級生が3人ほどいて、そんなことをした記憶がなくて、へ~と思ったものでした。(あおいうみさん)

長女小6、長男小5、次女小2、父が倒れたために帰郷。初めての田舎暮らしで大変だったと思います、後で聞いた話ですが訛りが無いので珍しがられたようです。(アキヒロさん)

小学生の頃、お互い好きどうしだった女の子が転校してしまって、その後2年位してまた転校して戻って来たのですが、それからはお互い話しづらくなってしまって中学生になってからも一度も話すこともなく終わってしまいました。(ヨシヨシさん)

小学生の頃、今でいう「帰国子女」の友人宅へお邪魔すると、極楽鳥の剥製が飾られていた(まきさん)

転勤族の親は、子に申し訳ないと思いがちですが、小学生の甥っ子はいろいろな土地に行くのが好きなようなので、頼もしいなあと思います。将来は海外に移住すると言い出すのではないかと、親である姉夫婦は心配していますが(笑)(なおさん)

小学校の時に転校してきた女の子。お互いのキャラも全く違い、最初のうちは内心嫌いあっていたが、好きなお笑いの話などしているうちにいつの間にか仲良しに。所属する女子グループは違っていたが、その距離感が心地よく、そういう存在は彼女以外いなかったなと。(ちーさん)

私も転校の経験はないです。転勤族の友人は人づきあいが得意でした。なので本人は大変かもしれないけれど、コミュニケーション能力や適応力が鍛えられるのかもなあと思いました。(ぼーさん)

親の都合で、小学校6年生で転校を経験しました。出会って間もないクラスメイトと行った修学旅行は、なんだかとても複雑な気持ちでした。(いちもくさん)

小学校6年の時札幌市の大通小学校に転校しました。中2の時また父の転勤があり、学校の寮に入りました。帰省の時「私の家はどこ?」というのが2回ほどありました。(hmwestさん)

私も転校生になった事がありませんが
小学生の時にキキララ好きな女の子が転校して来てお友達に慣れたのに又すぐに転校になってしまって…
私はまだ彼女の事を覚えてます!
今みたいにスマホがあれば…
お互い54才になり会って近況報告したいものです!(サティさん)

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