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午後7時。札幌駅北口にある公共施設エルプラザの一室。今日は祝日にも関わらず、貸会議室の一室に大学生たちが6人集まっていた。週一回行われている、北海道大学新聞編集部の定例会議だ。編集部には21名が所属し、中心的に活動するのは11名だ。学部の1〜2年生が多い。部長で法学部2年生の赤松陽菜子さんが司会を務めて、会議が進行していく。
最近、北海道大学の山スキー部が所有する山小屋「無意根尻小屋」が全焼したことが話題になった。
「歴史がある山小屋が無くなってしまった。取材した方がいいのでは」
「話を聞くのはいいと思う。でも現場に行く必要があるかな」
「行っても全焼してしまって何もない。クマの危険もあるし、そもそも入れないのでは」
「当時いた人に話を聞けばいいのでは。山スキー部に知り合いはいない?」
「山スキー部としてどう受け止めているのだろう」
「大手メディアが伝えないようなことを伝えるべきでは」
「北大の財産の山小屋の管理を、山スキー部が委託されていた。大学は他にも山小屋を所有していて、それぞれ管理している学生団体が違う。今回のことをどう受け止めているのだろう」
「北大側の反応は?どういう発表をするのか、大学の出方を待ってみようか」
会議の話題はそれから、大学の演劇サークル、イチョウの黄葉の時期に開かれる「金葉祭」、大学生協が行っている公務員試験対策講座等におよんだ。毎回、閉館時間の夜10時まで話し合いが続くという。
北海道大学新聞の歴史は古い。創刊は1926(大正15、昭和元)年の「北海道帝國大學新聞」に始まる(右ページ写真)。
創刊号を見ると、初代の北海道帝国大学総長・佐藤昌介が巻頭に「発刊の辞」を寄せている。定価は一部5銭。発行は「北海道帝國大學文武會」という団体で、これは学生と教職員からなる組織だったようだ。
大学新聞はその後も順調に発行を続けるが、創刊から85年後の2011(平成23)年、ついに1032号をもって廃刊となった。担い手がいなくなったのだ。当時の発行母体は「北海道大学新聞会」。新聞の廃刊と共に新聞会も廃会となった。廃刊に至るまで、事実上の休刊状態が長いこと続いていた。
最後は、たった1人で4回の発行を続けていたのが当時法学部に在籍していた北島知明さんだ。
現在は会社員の北島さんに当時の話を聞いてみた。北島さんは高校の時に新聞部に所属していたこともあり、大学にも新聞部はあるのだろうかと探したところ、「北海道大学新聞会」の存在を知る。連絡を取ってみたら、新聞は事実上の休刊状態で、それがもう4年ほど続いていることを知る。かつては部室として借りていた部屋も、休刊になって解約したようで部屋もなし。会は当時大学院生が1人で面倒を見ていた。「発行しないのですか?」と聞いたが、どうもその気はないらしい。会に入って管理人をやるだけではつまらないので、どうせやるなら発行してみて人が集まらなかったらやめよう、と計画した。
会に残っていた予算をやりくりして、復刊を果たす。1人で取材・編集をこなし4回発行した。かたわら部員の募集も行ったが、友人がちょっと手伝ってくれることはあったが、会に入ってまで新聞をやろうという学生は現れなかった。3年生も後半になり、就職活動のタイミングとなった。さすがに新聞発行との両立は難しく、「人が集まらなかったら止める」という当初の予定通り、廃会・廃刊を計画。大学新聞のOB・OG会にも相談し、廃刊を決めた。
最終号はいわゆる新聞の形ではなく、A4サイズの雑誌のような形にした。「違う可能性もあるのでは、ということを示したかった」と北島さんは言う。
「形にこだわる必要はない。自分が相手に伝えやすい方法で伝えればよいと思います」と北島さん。
社会人になり、文章にして人に説明したり説得する機会も多く、新聞に関わった経験が生きているという。また、メディアの情報をうのみにせずに自分で確認する癖もついたという。だがなによりも、事実上の休刊状態にあった新聞を、一旦終わらせるべきという判断を自分がしたという経験が大きな糧になっている、と話す。
廃刊時には朝日新聞の取材を受けている。「後継者がいなかったのは本当に残念。85年続いた新聞を終わらせるのはつらい決断でした。別な形でもいいので誰かが再びやってほしい」というコメントで記事は結ばれている。
それから6年後の2017年。「誰かが再びやってほしい」という北島さんの願いは現実のものとなる。復刊したいという学生が現れたのだ。当時法学部2年生だった櫻井貴文さんだ。
今度の運営母体は「北海道大学新聞編集部」とした。復刊の辞に「ネット時代の学生新聞として、常識にとらわれない自由なスタイルで北大の今を伝えます」とある。2018年4月、復刊がなった。
中学生のころからメディアに興味があったという櫻井さん。北海道大学に入学後、大学でもメディアに関わる活動ができないかと思っていたが、適当なものがなかった。調べてみると、北海道大学新聞が廃刊になっていることを知った。まずは、大学の同窓会を頼り、前述の北島さんに連絡を取った。廃刊から数年を経て、櫻井さんのような人が現れたことに、「非常に喜ばしい」という感想をもらったという。
その後、北大新聞会のOB・OGたちにもつないでもらい、「挑戦してみようか」という気持ちで復刊を決意した。始めたときの仲間は4人。紙という媒体にはこだわらず、とにかく情報を発信していこう、という趣旨でまずはウェブサイトを開設。復刊第1号はオンラインでの配信だった。紙媒体を発行したのは1年後の2019年4月だった。その後も紙の新聞の発行は年に1回程度。デジタルでの発信をまず充実させるポリシーは、現編集部にも引き継がれている。
櫻井さんの中で、紙の媒体は「自分たちの存在を認知してもらうためのツール」という位置づけだった。新聞発行の他にも、カレンダーを作って学内や店舗で販売したり、札幌のコミュニティーFM局の番組にレギュラー出演したりと、いろいろな試みを行った。
「北大は組織が大きいので、学内で何が起きているのかを把握するのが困難だと感じました。網羅することはできないが、すれ違う人、近くにいる人が何をしているのかを伝えられれば、何かの足しになるのでは」と考えたという。
復刊した当時、周りの反応はどうだったのだろう。
「正直、それほど話題にもならなかったし、周りの学生も『へぇ、そういうのがあるんだ』程度の反応でした」と当時を振り返る。部員の数も「1桁」で、大きく増えることはなかった。櫻井さんは大学院に進学し、卒業後は新聞社に就職した。
「期待していた以上の経験になりました。どんな状況に置かれても情報発信は絶やさない。常に情報を出し続ける。それが自分たちの存在証明にもなると思います」と語る。
現在の北海道大学新聞、紙の新聞の発行は4月と10月の年2回。約3600部を発行し、学内などで無料で配布している。ウェブサイトは復刊時から主要な
ツールとして位置づけられ、こちらの方が主軸だ。情報量も多く、随時更新されている。「ネット時代の学生新聞」という名の通りだ。
現部長の赤松さんに話を聞いた。赤松さんは福岡県出身。元々メディアに興味があったという。
「コロナ禍になったとき、関連する情報などをウェブで速報したことによって、北海道大学新聞の知名度も上がったと聞いています。基本的にはウェブ向けに記事を出し、その中から選んだ記事を紙の新聞に出す、という方針です」。
写真の撮影は主に部員のスマートフォン。新聞の印刷費用やウェブサイトの運用費は広告費から捻出している。部員は記者だけではなく、広告集めも行う。部長は半年ごとに交代する。
赤松さんの前の部長は、水産学部2年の高野鉄平さんだ。入部を決めたのは、当時の部長に誘われたから。同新聞の連載記事に「どんな道でも、道は道」という北海道大学生の受験特集がある。当時の部長が、発行されていた大学新聞に対する疑問を力強く語り、「紋切り型でないものを、人に迫るもの書きたい」という熱い思いに共感したという。「社会にある不条理に興味がある」という。
「どんな道でも、道は道」に、北大の工学部に入って医学部に入り直した学生のことを取材し、約1万字の長編としたのは、自身も医学部2年生の品村晶子さんだ。過去に6本の記事が公開されているが、どれも北大生一人一人にいろいろなドラマがあることを感じさせてくれる力作ぞろいだ。
小田恵大さんは法学部2年で、大学内にある恵迪(けいてき)寮に住む。元々書くことが好きで、いろいろな人に出会えて人脈作りにも役立つと思い参加した。4月にあった恵迪寮の火災では、既存メディアの報道が「火災が起きた事実と寮で自治が行われている事実とをいたずらに併記している」と、マスメディアの姿勢を「ミスリード」だと紙面で批判した。
古谷櫂さんは文学部1年生。高校時代も新聞を作っていたが、高校生であるがための制約も多かったという。「大学新聞ならもっと自由にできると思って参加した」と語る。
長い休眠期間を経て、紙にこだわらないという新たな形で情報発信を続けている。「大学の今を伝える」が部のコンセプトだ。これからもさらに新たな方法で情報が発信されるのだろうか。楽しみだ。
(文・写真:吉村卓也)
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