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ガイダンス施設に展示されている本物の石炭
北海道の産業の歴史を語るとき、炭鉱は外せない。戦後日本のエネルギー政策を支え、たくさんの人が働いた。その多くが集中していたのが空知地方だ。
1961年には、空知地域だけで最大112の炭鉱があった。1960年代には石狩炭田の産炭量は九州の筑豊を越え、日本一の生産量を誇った。その後、国内のエネルギーは石油中心に転換され、炭鉱は次々に閉山。1995年、歌志内にあった空知炭鉱の閉山で、この地区の炭鉱は歴史の幕を閉じた。
かつて炭鉱で栄えた地域は、人口減、高齢化といった問題に直面している。そんな中で、北海道を支えた3つの産業分野が「炭鉄港(たんてつこう)」の名称で、2019年5月、文化庁の認定する「日本遺産」になった。「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリー」が重視され、炭鉱関連で空知地区を中心に10市町、鉄の室蘭、港の小樽が申請者だ。
日本遺産の認定に向け、中心となって活動したのがNPO法人炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団だ。その理事長で札幌国際大学観光学部教授の吉岡宏高さんに話を聞くため、空知を訪ねた。
吉岡さんの名刺には「幌内炭鉱出身」とある。三笠市にあった北海道炭礦汽船(北炭)の炭鉱で、良質の石炭が採れた。吉岡さんの父は炭鉱の労務課で働いていた。炭鉱全盛時、約5万7千人だった人口は今は約8千人。「まちが壊れた、壊滅したと言っていい」と吉岡さんは言うが、「明るい炭鉱」という著書もある吉岡さんの、炭鉱に対峙する姿勢はいたってポジティブだ。
「炭鉱ができたおかげでまちができ、鉄道ができた。すべて根っこは炭鉱。総合的な産業で一つの社会だった。暗い面もあるが、その中で得た教訓を学ぶことで現在のいろいろな問題を乗り越えていく力になる」と強調する。
旧自走枠整備工場には坑内で使われていたさまざまな重機が展示されている。これは坑道を掘り進む「ロードヘッダー」。先端に巨大ドリルがついている。
立坑の建物。上部の輪は「ヘッドシーブ」という、エレベーターを動かすための巨大な滑車だ。
この事業団の前身となる市民活動が開始されたのは1998年。この地区の最後の炭鉱が閉じて3年後のことだ。
訪れた日、「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」で、吉岡さんは団体の見学者を案内していた。ここは、かつて住友赤平炭鉱があったところで、地下600メートルまで垂直に掘られた立坑があったところが市の見学施設として2018年7月にオープンした。
当時の炭鉱で使われた道具などが展示されたエリア、アクリル板の向こうに、畳10枚分くらいはありそうな、緻密な坑道の実測図が収められている。
「坑道の総延長は約200キロ。それを詳細に記録したのがこれ。こういうのが残っているのはここだけです。平面の地図に見えますが、地下は立体。坑道は上にも下にも走ってるんです」と、吉岡さんの説明が熱を帯びる。
施設の隣に、5階建てのビルくらいの古ぼけた建物がある。いやおうなく目につくのは、建物の天井部分に4つ見える大きな滑車だ。ここは住友赤平炭鉱の立坑の跡。滑車は立坑を降りるエレベーターのワイヤーを吊していた巻き上げ機の一部だ。計画では地下1000メートルまで掘られる予定だったが、実際には600メートルまで運用して閉山となった。東京スカイツリーの高さが約630メートルだから、その高さがほぼすっぽり地中に入っていることになる。炭鉱といえば、トロッコが坑口から地中に下って行くイメージが多いが、石炭を掘るにつれて現場が深くなったため、効率のよい立坑が造られ効率化が図られた。
建物を案内してくれたのは、ガイドの三上秀雄さん。実際に立坑を行き来して作業していたこともある元炭鉱マンだ。69歳だが、「元炭鉱マンとしては最年少の部類です」という。
操業時の写真がところどころに展示されている。実際に使われていたトロッコも置かれていたが、座席は驚くほど狭い。
ガイダンス施設で入場者に説明する「炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団」理事長の吉岡宏高さん。
空知の石炭が、鉄を作る溶鉱炉の原料として室蘭で使われ、鉄路で運ばれて小樽の港から出荷された。こうして炭鉄港の物語がつながる。すべては炭鉱から始まった。
「炭鉱は既におきた未来です」と吉岡さんは言う。
「人口減、高齢化、これから日 本におきるであろうことをもう経験した。企業も見捨てていった地域だけれど、まだ残る力強さを糧に、いろいろな人とつながりを持っていきたい。これから先へ進むための教訓があるはず」、と語ってくれた。
山﨑ワイナリーに実るピノ・ノワール。斜面一帯に見渡す限りブドウが植えられている。地中奥深くには今も大量の石炭が眠っているはずだ。
かつて、無数の坑道が掘られた空知の丘。今、新しい風景としてその丘を埋めているのはブドウの樹だ。斜面一面のブドウ畑を見下ろす、三笠市の山﨑ワイナリーを訪ねた。山﨑家はこの地ででかつて小麦、トウモロコシ、米を作っていた農家だった。父の山﨑和幸さんが新しい試みとしてファームインを始めたのが1990年代の半ば。「研修に行ったニュージーランドの農村が地域と交流しているのを見てあこがれたんだと思います」と、次男の太地さんは語る。太地さんは現在、ワイナリーの栽培を担当する。
当時、ファームインなどまだ珍しかった時代だ。ふつうの農家として、ほとんど同業者としか付き合いがなかったが、ファームインで新しい交流が生まれ今まで会ったことがない種類の人と会うようになった。ワイナリーのアイデアがひらめいたのも、そんな出会いがあったからだ。斜面を見た他県のワイナリーオーナーから言われた「ブドウ栽培にぴったりだ」の一言が転機となった。
山﨑ワイナリーの山﨑太地さん
ワインラベルの「花びら」はワイナリーをスタートした家族5人の指紋でデザインした。「三笠市達布の農村でワイン文化という新しい花を咲かせたい」という願いが込められている。
ブドウを植え始めたのが1998年。長男は東京の大学で醸造を学んできた。4年かかって資金を調達、建物と醸造所を作り、酒の製造免許を農家としては北海道で初めて取得した。有限会社としてワイナリーをスタートしたのが2002年だった。
初めは、ワイン用のブドウの品種「ピノ・ノワール」を植えた。北海道では成功例がなかったが、完成したワインに初めてその名前を入れることができた。2013年からは他の作物の生産はやめ、ブドウに集中した。現在造っているブドウは10品種となり、ワイナリーは今年が11回目の醸造だ。
空知の地は褶曲(しゅうきょく)が激しい。だから地層が地面と水平ではなく、地殻変動で押されて垂直に近いところが多い。石炭層も平らではなく、急傾斜の炭層は炭鉱マンたちに難しい作業を強いたが、その特徴がブドウ栽培に面白い結果をもたらした。
山﨑ワイナリーの栽培地にはほぼ垂直に立った7つの地層が確認されており、そこに植えられるブドウはそれぞれの土で味が違うという。エリア毎に樽を分けて発酵させ、ボトリングのときにブレンドすることで奥深い味となり、一つの土質に依存しない安定生産にもつながった。
太地さんは大学で教員免許も取得したが、卒業後はすぐに家業の農業に就く道を選んだ。家業を見続けたなかで、「農家の自立」を果たし、農村に寄与する仕事がしたい気持ちが募っていた。
ワイナリーの丘からは石狩平野の北部が見下ろせる。
「ほら、あそこに防風林が見えるでしょ」
太地さんが指さす先に、高い木が一直線に並んでいるのがよく見える。
「防風林を植えた人はその恩恵に預かれない。だけど今こうしてみんなの役に立っているんです。炭鉱もブドウ畑もそれと同じ。この地の風景として定着してくれればいいと思ってます」
今、地元の小学生のワイナリー見学を受け入れている。山﨑ワイナリーが端緒となり、空知にはワイナリーが増えてきた。炭鉱を知らない子どもたちが成長し、この地を思い出すとき、頭に浮かぶのは斜面を覆う一面のブドウ畑の風景かもしれない。
(文・写真/吉村卓也)
一般見学(無料)9:30〜17:00、炭鉱遺産ガイド付見学(有料)
催行時間(10:00、13:30の2回、ガイダンス施設の開館日に限る)
休館日:月、火(月火が祝日の場合は開館して翌平日休み)
赤平市字赤平485番地 TEL:0125-74-6505
有限会社 山﨑ワイナリー
ショップ営業日:土日・祝日のみ
営業時間:10:00〜17:00(10月)、10:00〜16:00(11〜3月)、10:00〜18:00(それ以外)
三笠市達布791-22 TEL:01267-4-4410
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