表紙の司馬遼太郎さんの言葉は、こう続く。「とくにオホーツク海岸がいい。幸い一九九二年正月二日、叶えられた。夕刻、千歳空港に着いた」
この旅に同行したのが、週刊朝日編集部の村井重俊さん。表紙にある道庁近くの横断歩道で村井さんと司馬さんが交わした洒脱な会話は、「街道をゆく オホーツク街道」に載っている。1971年に始まり、司馬さんが亡くなる1996年まで連載された「街道をゆく」の、5人目にして最後の担当者。1983年に入社し、1989年から担当となった。
「オホーツク街道」の最初の取材は、1991年の秋。次が1992年1月で、札幌から稚内、紋別、網走とオホーツク人の足跡をたどっていった。司馬さんと妻のみどりさんは稚内で買ったスパイク付きのゴム長靴が気に入り、どんどん雪の中に入っていった。「本当に楽しそうでした。村井くんは、雪の歩き方がうまいねって、ほめてもらったな」と村井さん。
それもそのはず、村井さんは室蘭市の生まれ。深川、紋別、夕張などで育ち、道立札幌南高校の卒業生。忘れられないのが、猿払村での司馬さんだ。浜鬼志別の浜に、遭難した旧ソ連の貨物船の碑がある。積もった雪が横なぐりに吹き付けるほどの強風の中、司馬さんは一歩一歩、碑まで歩いて行った。
「司馬さん、かっこいいな、やるなって見てました。隣にいた前の担当者は『酔狂な』って言ってましたけどね」
1922(大正11)年5月に創刊された週刊朝日は今年、創刊100年を迎える。「いろいろな人が紡いできた100年。その中でも『街道をゆく』はやはり、週刊朝日のバックボーンだと思う」と村井さん。「週刊誌を良くするのは、作家と編集者との知的闘い」とも。司馬さんとの会話は楽しかったが、毎回がテストだったと振り返る。
「第1次南極越冬隊」(1957年)の隊長、西堀栄三郎・京大教授が体験記を出版するとき、文章を学んだのは週刊朝日だったという話も司馬さんから聞いた。
「僕は結局、週刊朝日がどういう雑誌か、司馬さんに教わっていたんです」
村井さんは朝日新聞北海道報道部にも勤務した。赴任はドラマ「北の国から」が最終回を迎えた2002年。富良野に通い、2003年の正月連載「富良野で見る夢」にまとめた。4、5日行っては帰り、帰ってはまた行く。ここはどういうところで、どんな歴史があったのか、この人はどこから来たのだろう。そう思いながら街を歩いた。これは「街道をゆく」だと気づいた。春には函館に通い、「函館 記憶のチカラ」として連載した。
「蛍役の中島朋子さんをインタビューしたら、飛行機から見える針葉樹しかない光景が好きって言っていて、ああ、北海道愛だなって」と語り、「函館では遺愛学院の本館の廊下がきれいで、ジュディマリ(JUDY AND MARY)の YUKIも歩いたんだなって感動した」と語る。札幌の報道部近くには、喫茶店「北地蔵」があった。南高の男子生徒には、「彼女がいるヤツしか行けない」という不文律があったそうで、そこに通えた喜びもニコニコしながら話してくれた。
ところで現在、活字メディアをめぐる状況は、とても厳しい。ネットメディアを前に、生き残っていけるだろうか。そう村井さんに尋ねた。
「ある編集長が司馬さん宅を訪ね、週刊朝日を大胆に変えるという報告をしたことがありました。司馬さんはじっと話を聞いて、何一つ、反対しませんでした。雑誌はすべからく変わるべきものというのが、司馬さんの考えだったと思います」
「ブラック・アングル」のイラストレーター・山藤章二さん、画家の安野光雅さんらの担当もした。良質な雑誌文化を支えてきた人たちと触れ合えた幸福。それがあるから、作り続ける。続けないと勝負にならないし、変わりながら続けていけば、未来は見える。村井さんは、そう語った。
司馬さんの没後も「司馬遼太郎が語る日本――未公開講演録」「司馬遼太郎からの手紙」と連載を続け、現在の「幕末傑作短編集」まで司馬さんの灯を週刊朝日にともし続けている。2023年は司馬さん生誕100年。大きな企画を思案中だ。
朝日新聞出版が発行する週刊誌には、もうひとつ1988年に創刊された「アエラ」がある。編集長は片桐圭子さん。彼女も北海道人だ。
白老町虎杖浜で生まれ、登別、苫小牧で育ち、北海道大学へ。他社を経て、1995年に朝日新聞に入社した時からアエラ編集部志望で、念願かなったのは2000年。配属4年目の2003年に片桐さんが書いたのが、「拓銀元行員が歩んだ浮沈」という記事だ。
1998年に北海道拓殖銀行が破綻してから5年。都市銀行としては最初で唯一の破綻だったが、日本経済はそれからどんどん悪化、「会社がつぶれる」という事態が日常化していた。拓銀の元行員たちが歩んだ道を取材すれば、自分ごととして読んでくれる人がいる、立ち直る姿が描ければ、応援歌にもなる。そう考えた片桐さん、企画会議に「元拓銀行員を追う」企画を出し、こう言った。
「拓銀には友人が何人も就職しましたから、余裕で取材できます」
甘かった。友人、友人の友人とつてを頼りに多くの元行員に取材を申し込んだが、ほとんどがなしのつぶてだった。「私が思っていた以上に、みんなが深い傷を負っていたんだと、取材を始めて思い知りました」
札幌に取材に行き、拓銀本店があった場所から地下道へ降りた。学生時代、近くで英会話を習っていて何度も通ったのに、どうも様子が違う。記憶よりずっと暗い。見回すと、道の両側にあった広告が全然ない。破綻から5年、ずっと北海道経済は停滞していると実感した。
とはいえ、破綻が他社より早めだったことが幸いし、元行員たちの再就職先は比較的多かった。が、そう単純な話ではないことも、すぐ気づいた。小学校時代の友人が実名で応じてくれたのは、「再就職先で一つ、自信を持てる仕事ができたから」。「働く」ことの意味を考えながら38人に話を聞き、6ページの記事にまとめた。最後の一文は、こうだ。「事実、日本経済を支えるさまざまな場面で、拓銀は、いまも生きている」
その3年後、片桐さんは再び北海道に取材に向かう。今度は札幌ではない。見出しは「駒苫、愛してます 苫小牧市民の夏」。掲載は2006年9月18日号。と書くとお気づきの方もいるかもしれないが、駒大苫小牧高校が優勝した年ではない。ハンカチ王子・斎藤佑樹投手を擁する早稲田実業に敗れた年だ。それでも取材に行く、熱い地元愛。
記事中、自ら田中将大投手が話題にならない悔しさを訴え、球児たちの頑張りを絶賛した。片桐さんの母のコメントも登場する。家族、いや道民あげての駒苫フィーバーだった。「北海道はずっといいことがなくて、みんな喜び方を忘れていました。駒苫が教えてくれたんです」
2018年9月、編集長に。3年半が過ぎ、もう新型コロナウイルス禍の方が長くなる。アエラは羽田空港の書店でよく売れたが、出張が激減してしまった。アドバンテージが一つ減っただけでなく、人に会いにくい状況が編集、マネジメント、どちらにも大きく影響しているという。
「アエラが『目的』になっていくことだと思うんです」と片桐さん。何となく買おう、と週刊誌に手を伸ばしてもらえる時代ではない。これがあるから、アエラを買う。そういうアエラにしかないものを「目的」に、買ってもらう。今なら音楽家で俳優のKing Gnu井口理さんの連載「なんでもソーダ割り」がそうだし、本にまとまった佐藤優さんの「池田大作研究」もそうだった。確かな「目的」をいかに増やすかを、日々考えているという。
最後に「北海道のみなさんにメッセージを」とお願いすると、片桐さんは少し考え、「もう一度、北大の学生になりたいです」と言った。地域の人と一緒に課題解決をする。今の大学には、そういう活動が増えているから、と。
「例えばJR北海道の経営問題ひとつとっても、北海道の広さが不利になっている。経営効率という尺度だけで考えていいのかな、と思うんです」
アエラ編集長としてでなく、大学生として北海道に向き合う。そんな日を、片桐さんは夢見ている。
ところで、ここまで書いてきた私、矢部万紀子は朝日新聞出版のOGだ。週刊朝日時代にはお笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志さんの連載を担当、後に合わせて300万部を超すベストセラー『遺書』『松本』になった。村井さんは同期、片桐さんとはアエラ編集部で一緒に働いた。他部署にも多く人材はいるが、親しい北海道人2人に登場いただいた。活字を愛する者として、これからも2人を、朝日新聞出版を、そして北海道を応援したいと思っている。
(文・矢部万紀子 表紙写真:吉村卓也 中ページ写真:篠塚ようこ)
矢部万紀子 コラムニスト。1961年生まれ。83年、朝日新聞社入社。経済部、週刊朝日、アエラなどを経て、2017年からフリー。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』『美智子さまという奇跡』『雅子さまの笑顔 生きづらさを超えて』。毛ガニが大好物。 篠塚ようこ フォトグラファー。1978年東京生まれ。AERA写真部を経てフリーランス。日本写真家協会会員。朝日新聞、AERA、朝日新聞デジタル「好書好日」などでポートレイト撮影を中心に活動。ジンギスカンを食べ始めるとビールがとまらない。
ここからは特集に関連して会員の皆さんからよせられたコメントをご紹介します。
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