北海道を代表する観光地、小樽。その目玉は何といっても小樽運河だろう。コロナも落ち着き、運河の周辺は観光客でごった返している。2023年は運河が完成してから100年目となり、さまざまな行事も予定されている。その節目の年に、小樽の町を歩いた。
小樽運河が完成したのは1923(大正12)年。当時小樽は貿易港として栄えていた。人口も当時の札幌に匹敵する10万人以上。今も小樽に残る重厚感のある石造り建物の数々は、この町のかつての繁栄を感じさせる。
小樽港の沖合に停まる大型船との荷物のやりとりのため、はしけと呼ばれる小型船が行き来した。はしけをうまくさばくために作られたのがこの運河だ。完成したときは、長さ約1300メートル、幅40メートルだった。
運河完成当時から、港の物流ははしけから船を横付けする埠頭に変わり、運河の役割は低下。さらにモータリゼーションの波が、小樽に新たな道路の建設を促した。時代は1960年代、高度成長期だ。
役割を終えつつあった運河を埋め立てて道路を作るのか、小樽の顔として運河を残すのか、町を二分する論争となったのはよく知られるところだ。運河論争を語るには紙幅が足りないので、結局運河の一部は当時の幅40メートルの半分が埋め立てられ、20メートル幅で一部を残すという「折衷案」となり現在に至る、という説明に留める。埋め立てられ作られた道路は片側3車線、「臨港線」と呼ばれ、この道路の中央分離帯のところまでがかつての運河だったと考えれば分かりやすい。
観光客で賑わう一帯から運河沿いに北の方に歩いて行くにつれて、どんどん人が少なくなる。車道が大きくカーブするところを抜け、さらに進むと運河が広くなる。ここからが「北運河」でかつての40メートル幅の運河が残る。北運河脇には「運河公園」があり、その先には保存修理中の重要文化財、旧日本郵船の石造りの建物が見える。ここは日露戦争後、日本とロシアで「国境画定会議」が行われた場所として有名だ。小樽商科大学グローカル戦略推進センターの客員研究員で、小樽や北前船の歴史を研究し地域づくりにも関わる高野宏康さんによれば、近年の研究では実際に開かれた会議は国境画定ではなく、委員会による技術的協議だったという指摘があるそうだ。
喧騒とは無縁な公園の一角に廣井勇の銅像がひっそりと立つ。高知出身で札幌農学校に学び、日本の港湾土木の父と言われ、小樽の北防波堤を設計した人物。高野さんは「廣井の助言が小樽運河の建設に大きな役割を果たしました」という。
公園では、地元の子どもたちだろうか、ボール遊びをしたり噴水の水たまりに入ったりしながら遊んでいる。ベンチに腰掛けると、聞こえてくるのはカモメの声と、時おり運河をすべるようにやってくる観光ボートのガイドさんの声くらいだ。
北運河の入り口と海の間に、古びた4階建ての倉庫が存在感を放っている。小樽市の歴史的建造物、北海製罐小樽工場第3倉庫だ。解体の危機を乗り越え、2021年に小樽市に無償譲渡された。
この建物を再活用するために、有志で結成されたのがNPO法人OTARU CREATIVE PLUS(OC+)だ。活動の中心メンバーの1人が同法人専務理事の福島慶介さん。
「第3倉庫はこれからのまちづくりの核になると思います。世界に誇れる小樽を目指したい」と語る。
地元の工務店の社長だが、大学で建築を学んだ後博士課程まで進み、空間演出、メディアアート、映像なども手がける。NPOの中心活動メンバーにも、ブランディング担当、YouTuber、プログラマー等、多彩な若い人材が集う。
「建物も大きく、使えるものにするには資金もかかる。とても難しいプロジェクトだと思うが、市民の声を集めながら形にしていきたい」と語る。徐々に準備を進め、2026年くらいから大規模改修を目指したいという。
7月、第3倉庫のそばの駐車場で、「小樽運河100年プロジェクト」の実行委員会主催によるキックオフ会があった。中心は小樽市経済団体のメンバー。同委員会は秋から運河竣工記念日である12月27日に向けて、いろいろなイベントを計画している。
小樽の夜を楽しむ企画や、旧三井銀行小樽支店を舞台にフルコースの料理や音楽を楽しむ「重要文化財パーティー」を行う予定だ。
実行委員長の木村年宏さんは市内で飲食店を経営する。
「課題となっている夜の小樽の楽しみを増やしたい。日帰り観光からの脱却を図りたい」と語る。
小樽駅から運河に向かってまっすぐ歩き、運河の手前左側にあるのが小樽市観光協会の入る「運河プラザ」だ。旧小樽倉庫で屋根のしゃちほこが目印。佐々木一夫さんはこの中にある「喫茶一番庫」を営む。運河の保存運動にも関わった世代だ。店の壁や棚には古い柱時計や家具、骨董品のコレクションがあり昔の小樽を彷彿とさせる。全部佐々木さんの私物だ。
「運河が半分になり、保存運動は負け。私たちは運河を守れなかった」と、言う。小樽のいいもの、埋もれているものを掘り起こし、未来につなぎたい、と話す。「埋もれているもの」とは何なのか。
「小樽運河です。運河を掘り起こし元の姿に戻して欲しいと思っています。港を中心に地場産業を復活させ、地産地消でつつましく暮らせる町になったらいい」と語る。
運河から約3キロ、町のにぎわいからは離れた同市清水町の丘の斜面に、昔ながらの住宅地がある。坂が多く、住民も高齢化し、手付かずの空き家も増えた。アメリカ人のGP・アミックさんがこの一角に移り住んで4年になる。いくつかの物件を買い取り、自分で手を入れている。材料は、取り壊された石蔵の軟石、古民家の廃材など。資材を保管する車庫には太い木の梁(はり)や取り外された立派な欄間が積まれている。どれも解体される物件から譲り受けたものだ。
「小樽では古いものがどんどん壊されている。古材は燃やされている。なんでこんなに美しく歴史のある貴重なものを、簡単に捨てるんでしょう。だから自分でレスキューします」と言う。
最近は、いろいろな国の人たちが彼のところに滞在し、建築や畑の仕事を手伝うようになった。仕事をやってもらう代わりに、食事と寝るところを提供する約束で、その両者を結びつけるWorkaway(ワークアウェイ)というマッチングアプリを使っている。
「アプリでこちらの条件を示し、オンラインで面接します。旅行の宿代わりは嫌なので、最低2週間以上滞在してもらいます。いろいろな専門知識を持った人たちを選んでいます。自分だけではできなかったことが、彼らの助けでできる」という。
訪れたときも、3名が滞在していた。ドイツ人のトビアス・シュトゥーバーさんは園芸を学ぶ大学生。パナマ人のフアン・ゴンザレスさんは機械工学の専門家、そのパートナーの須山悠夏さんは台湾の大学を卒業した中国語と日本語の先生だ。世界を旅しながら、仕事があればオンラインで行う「デジタル・ノマド」たちだ。イスラエル、ハンガリー、オランダ……、これまで滞在した人たちの国籍も様々だ。
近所の人たちとも積極的に関わる。
「この人がいなかったらもう引っ越してたかもね」と、近くでひとり暮らしをする80代の女性は語る。
「人口が減って、小樽はどんどん小さく(smaller, smaller)になる。そうしたらもっと賢く(smarter, smarter)ならなくちゃね。この場所をもっと魅力あるところにしたい。知恵のある人が世界中から集まって、小樽をもっと魅力的にしたい」という。
帰路、運河沿いの空の第3倉庫がライトアップされていた。冒頭紹介したNPOがLED電球をつないで手づくりした照明が散策路をほのかに照らす。100年前にできた運河、その翌年にできた倉庫。100年後、小樽の町はどのように変わっていることだろう。
(文・写真:吉村卓也)
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