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>HOME >特集一覧 >VOL182「炭鉱の記憶、忘れない。」
炭鉱の記憶、忘れない。

「炭鉄港」、空知の物語
昔、炭鉱があった。そして今。

ガイダンス施設に展示されている本物の石炭
ガイダンス施設に展示されている本物の石炭

 北海道の産業の歴史を語るとき、炭鉱は外せない。戦後日本のエネルギー政策を支え、たくさんの人が働いた。その多くが集中していたのが空知地方だ。

 1961年には、空知地域だけで最大112の炭鉱があった。1960年代には石狩炭田の産炭量は九州の筑豊を越え、日本一の生産量を誇った。その後、国内のエネルギーは石油中心に転換され、炭鉱は次々に閉山。1995年、歌志内にあった空知炭鉱の閉山で、この地区の炭鉱は歴史の幕を閉じた。

 かつて炭鉱で栄えた地域は、人口減、高齢化といった問題に直面している。そんな中で、北海道を支えた3つの産業分野が「炭鉄港(たんてつこう)」の名称で、2019年5月、文化庁の認定する「日本遺産」になった。「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリー」が重視され、炭鉱関連で空知地区を中心に10市町、鉄の室蘭、港の小樽が申請者だ。

 日本遺産の認定に向け、中心となって活動したのがNPO法人炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団だ。その理事長で札幌国際大学観光学部教授の吉岡宏高さんに話を聞くため、空知を訪ねた。

産業の根っこは炭鉱だった

 吉岡さんの名刺には「幌内炭鉱出身」とある。三笠市にあった北海道炭礦汽船(北炭)の炭鉱で、良質の石炭が採れた。吉岡さんの父は炭鉱の労務課で働いていた。炭鉱全盛時、約5万7千人だった人口は今は約8千人。「まちが壊れた、壊滅したと言っていい」と吉岡さんは言うが、「明るい炭鉱」という著書もある吉岡さんの、炭鉱に対峙する姿勢はいたってポジティブだ。

 「炭鉱ができたおかげでまちができ、鉄道ができた。すべて根っこは炭鉱。総合的な産業で一つの社会だった。暗い面もあるが、その中で得た教訓を学ぶことで現在のいろいろな問題を乗り越えていく力になる」と強調する。

ロードヘッダー
旧自走枠整備工場には坑内で使われていたさまざまな重機が展示されている。これは坑道を掘り進む「ロードヘッダー」。先端に巨大ドリルがついている。

立坑の建物
立坑の建物。上部の輪は「ヘッドシーブ」という、エレベーターを動かすための巨大な滑車だ。

この記憶をつなぎたい

 この事業団の前身となる市民活動が開始されたのは1998年。この地区の最後の炭鉱が閉じて3年後のことだ。

 訪れた日、「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」で、吉岡さんは団体の見学者を案内していた。ここは、かつて住友赤平炭鉱があったところで、地下600メートルまで垂直に掘られた立坑があったところが市の見学施設として2018年7月にオープンした。

 当時の炭鉱で使われた道具などが展示されたエリア、アクリル板の向こうに、畳10枚分くらいはありそうな、緻密な坑道の実測図が収められている。

 「坑道の総延長は約200キロ。それを詳細に記録したのがこれ。こういうのが残っているのはここだけです。平面の地図に見えますが、地下は立体。坑道は上にも下にも走ってるんです」と、吉岡さんの説明が熱を帯びる。

 施設の隣に、5階建てのビルくらいの古ぼけた建物がある。いやおうなく目につくのは、建物の天井部分に4つ見える大きな滑車だ。ここは住友赤平炭鉱の立坑の跡。滑車は立坑を降りるエレベーターのワイヤーを吊していた巻き上げ機の一部だ。計画では地下1000メートルまで掘られる予定だったが、実際には600メートルまで運用して閉山となった。東京スカイツリーの高さが約630メートルだから、その高さがほぼすっぽり地中に入っていることになる。炭鉱といえば、トロッコが坑口から地中に下って行くイメージが多いが、石炭を掘るにつれて現場が深くなったため、効率のよい立坑が造られ効率化が図られた。

 建物を案内してくれたのは、ガイドの三上秀雄さん。実際に立坑を行き来して作業していたこともある元炭鉱マンだ。69歳だが、「元炭鉱マンとしては最年少の部類です」という。

操業時の写真
操業時の写真がところどころに展示されている。実際に使われていたトロッコも置かれていたが、座席は驚くほど狭い。

理事長の吉岡宏高さん。
ガイダンス施設で入場者に説明する「炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団」理事長の吉岡宏高さん。

炭鉱は「既におきた未来」

 空知の石炭が、鉄を作る溶鉱炉の原料として室蘭で使われ、鉄路で運ばれて小樽の港から出荷された。こうして炭鉄港の物語がつながる。すべては炭鉱から始まった。

 「炭鉱は既におきた未来です」と吉岡さんは言う。

 「人口減、高齢化、これから日 本におきるであろうことをもう経験した。企業も見捨てていった地域だけれど、まだ残る力強さを糧に、いろいろな人とつながりを持っていきたい。これから先へ進むための教訓があるはず」、と語ってくれた。

ガイダンス施設に展示されている本物の石炭
山﨑ワイナリーに実るピノ・ノワール。斜面一帯に見渡す限りブドウが植えられている。地中奥深くには今も大量の石炭が眠っているはずだ。

空知の新しい風景

 かつて、無数の坑道が掘られた空知の丘。今、新しい風景としてその丘を埋めているのはブドウの樹だ。斜面一面のブドウ畑を見下ろす、三笠市の山﨑ワイナリーを訪ねた。山﨑家はこの地ででかつて小麦、トウモロコシ、米を作っていた農家だった。父の山﨑和幸さんが新しい試みとしてファームインを始めたのが1990年代の半ば。「研修に行ったニュージーランドの農村が地域と交流しているのを見てあこがれたんだと思います」と、次男の太地さんは語る。太地さんは現在、ワイナリーの栽培を担当する。

 当時、ファームインなどまだ珍しかった時代だ。ふつうの農家として、ほとんど同業者としか付き合いがなかったが、ファームインで新しい交流が生まれ今まで会ったことがない種類の人と会うようになった。ワイナリーのアイデアがひらめいたのも、そんな出会いがあったからだ。斜面を見た他県のワイナリーオーナーから言われた「ブドウ栽培にぴったりだ」の一言が転機となった。

山﨑ワイナリーの山﨑太地さん
山﨑ワイナリーの山﨑太地さん

ワインラベル
ワインラベルの「花びら」はワイナリーをスタートした家族5人の指紋でデザインした。「三笠市達布の農村でワイン文化という新しい花を咲かせたい」という願いが込められている。

ブドウ栽培の適地

 ブドウを植え始めたのが1998年。長男は東京の大学で醸造を学んできた。4年かかって資金を調達、建物と醸造所を作り、酒の製造免許を農家としては北海道で初めて取得した。有限会社としてワイナリーをスタートしたのが2002年だった。

 初めは、ワイン用のブドウの品種「ピノ・ノワール」を植えた。北海道では成功例がなかったが、完成したワインに初めてその名前を入れることができた。2013年からは他の作物の生産はやめ、ブドウに集中した。現在造っているブドウは10品種となり、ワイナリーは今年が11回目の醸造だ。

 空知の地は褶曲(しゅうきょく)が激しい。だから地層が地面と水平ではなく、地殻変動で押されて垂直に近いところが多い。石炭層も平らではなく、急傾斜の炭層は炭鉱マンたちに難しい作業を強いたが、その特徴がブドウ栽培に面白い結果をもたらした。

 山﨑ワイナリーの栽培地にはほぼ垂直に立った7つの地層が確認されており、そこに植えられるブドウはそれぞれの土で味が違うという。エリア毎に樽を分けて発酵させ、ボトリングのときにブレンドすることで奥深い味となり、一つの土質に依存しない安定生産にもつながった。

 太地さんは大学で教員免許も取得したが、卒業後はすぐに家業の農業に就く道を選んだ。家業を見続けたなかで、「農家の自立」を果たし、農村に寄与する仕事がしたい気持ちが募っていた。

 ワイナリーの丘からは石狩平野の北部が見下ろせる。

 「ほら、あそこに防風林が見えるでしょ」

 太地さんが指さす先に、高い木が一直線に並んでいるのがよく見える。

 「防風林を植えた人はその恩恵に預かれない。だけど今こうしてみんなの役に立っているんです。炭鉱もブドウ畑もそれと同じ。この地の風景として定着してくれればいいと思ってます」

 今、地元の小学生のワイナリー見学を受け入れている。山﨑ワイナリーが端緒となり、空知にはワイナリーが増えてきた。炭鉱を知らない子どもたちが成長し、この地を思い出すとき、頭に浮かぶのは斜面を覆う一面のブドウ畑の風景かもしれない。
(文・写真/吉村卓也)


●赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設

一般見学(無料)9:30〜17:00、炭鉱遺産ガイド付見学(有料)
催行時間(10:00、13:30の2回、ガイダンス施設の開館日に限る)
休館日:月、火(月火が祝日の場合は開館して翌平日休み) 赤平市字赤平485番地 TEL:0125-74-6505

●YAMAZAKI WINERY

有限会社 山﨑ワイナリー
ショップ営業日:土日・祝日のみ
営業時間:10:00〜17:00(10月)、10:00〜16:00(11〜3月)、10:00〜18:00(それ以外)
三笠市達布791-22 TEL:01267-4-4410


『昔、炭鉱があった。』

ここからは特集に関連して会員の皆さんからよせられたコメントをご紹介します。
面白かったコメント、私も同じ!と思ったコメントは、ぜひいいね!を押してください。

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炭鉱閉山によって廃線となった鉄路が多く、鉄道ファンとしては残念です。

ありゃまさん いいね! 0

炭鉱は今ありませんが 昔は炭鉱で栄えていた町がたくさんありました

samaruさん いいね! 0

昔室蘭のゆきは、工場の煙で赤茶色でした。

龍之介さん いいね! 0

小樽に今はもうありませんが、石炭積み出し用の桟橋がありました。私が小さい時には、海に伸びる桟橋がまだあり、小樽が石炭や穀物の積出港として栄えていた頃を偲ぶことができました。桟橋周辺にあった線路などの施設も今はすっかりなくなり、総合博物館で歴史を知ることができます。

カメラとギターさん いいね! 0

「炭鉄港」の「港」は小樽。 やはり石炭でつながっていたのですね。

私は北海道で生まれ育ったわけではありませんが、小学校の頃は、冬の暖房は石炭ストーブでした。
当番に当たると、朝、皆が来る前に、黒い石炭用のバケツに石炭を入れ、教室まで運んだものです。
そして、火付け役は、先生の仕事。そのあと、当番の日には、最後の灰の片付けまでが、お役目です。
帰る頃には、もう十分温まった教室で、石炭ストーブが冷めるのを何を思っていたのかじっと見つめていました。

AsahiF Yさん いいね! 0

冷めるのをじっと見つめていた、状況が目に浮かびますね。なんとなく気持ちわかります。

私が子供のころの燃料といえば、石炭と薪が主流で、学校では石炭を運ぶ係もありました、また自宅ではよく巻き割をしました。地球級温暖化に、よくないことですが、当時が懐かしいです。私の住む小樽では港に石炭の山がいくつもあり活気がありましたが現在は港に活気が感じられません。

teruさん いいね! 0

冬の暖房は石炭ストーブで煙突掃除がたいへんでした。

ruhaさん いいね! 0

私の生まれた留萌市にも、炭坑が有りました。
「大和田炭坑」家からも近かったのでよくズリ山などに遊びに行ったものです。

genbu218さん いいね! 0

留萌にも炭坑があったのですね

学生の頃、炭鉱事故で初めて夕張を知り、そこで初めて大変な仕事なんだなと分かり、又北海道の炭鉱の多さを知りました。

よっちんさん いいね! 0

近年、産業遺産として日本の炭鉱が注目されています。それほど詳しくありませんので、出来れば炭鉱の明暗両方の面(開発による地域の発展、エネルギー産業の転換に伴う衰退、新たな活用方法とその課題等)に着目した特集が読み、知識を深めたいと思います。

せっきーさん いいね! 0

もう半世紀になりますが、初めて北海道に勤務したときブリキでできた通称ルンペンストーブが我が家の暖房器具でした、2~3個のストーブに石炭を詰め1個が消えそうになると順番に火をつけ温かさが消えないようにしていたのを懐かしく思い出します。

くまのプーさんさん いいね! 0

どうしてルンペンストーブと呼ばれるようになったのでしょうかね

小学生の頃、水天宮から小樽築港を眺めると、10数本の巨大なトランスポーターが立ち並んでいました。まだ石炭積み出しがあった時代です。まるで恐竜のような姿でした。

Yukiさん いいね! 0

昔の小樽を知る方によく聞きました。 一度見てみたかった!

子供の頃、学校の暖房は石炭ストーブでした。確かルンペンストーブと言っていたと思います。火を入れてしばらくすると小さな破裂音がしてボンと煙が出ることがしばしばありました。
爆発と呼んでいましたが、周りがススだらけになった事を思い出します。

あめゆきあられさん いいね! 0

爆発、ありましたね。ストーブに近い席は大変でした。

小学校、中学校とだるまスト-ブでした。スト-ブに石炭をくべるのが 何だか楽しかったです。
スト-ブの前の席になると 顔が熱くてたまりませんでした。

ラビットさん いいね! 0

亡くなった父が住友石炭に勤めていました。お風呂は共同で家族は無料で入れたそうです。私も赤平で産まれて歌志内にも住んでいました。その後炭鉱も無くなり父は東京でコンピューターの勉強をして札幌で就職し私達子供3人を育ててくれました。母も苦労をしたと聞いております。石炭飴が懐かしいです。

えっちゃんさん いいね! 0

石炭飴?調べてみたら赤平市名産なんですね!

2ページ

数十年前、小学生だったころ石炭が石なのに燃える理由が不思議でした。その後化石燃料だから燃えること、金、マンガン、石油、石英、ヒスイ、雲母、アスファルトなど、さまざまな鉱物資源が北海道の大地に眠っていることも知りました。知るほどに太古からの悠久の時間が今につながっている私たちの北海道、そして日本の魅力が感じられています。

コーヒーに自信ありさん いいね! 0

母が、幼い頃、炭鉱の共同住宅に住んでいたそうです。小さい炭等を生活に使っていたと聞きました。

ナルさん いいね! 0

炭鉱という響きにワクワクします。
炭鉱と聞いてまず思いつくのが夕張!炭鉱見学に一度訪れてみたいものですね。

ゆっきさん いいね! 0

三笠市弥生出身です。各町内毎に無料の共同浴場があり友達と毎日入りに行っていました。また2階席もある映画館があって子供10円でゴジラが観れました。盆踊りも3重4重の輪になって熱気が凄かったです。活気ある町にはパチンコ店が2店あって、お寿司屋さんがあって、他にもいろんなお店があって、保育所、幼稚園があって・・・。今は全て無くなってしまいましたが、楽しかった思い出はずっと残ってます。

きくちゃんさん いいね! 0

無料の共同浴場、3重4重の盆踊り。当時を知る貴重なお話です。映画が10円とは!

子供の頃は暖房の全てが石炭で駅前には石炭販売場がありました。
そこから石炭を運んでもらいそれを家の物置小屋に入れるのを手伝うのが小学生でもあたりまえにやってました。
風呂の石炭での湯沸かしもやってました。

ノブさん いいね! 0

デレキ、スコップ、がストーブの横に在り、父親の・・・・。今なら警察に行きますね・・・。

プー母さん いいね! 0

中学の時に、夕張は昔石炭が有名ですごく栄えていたと聞き、驚いた記憶があります。

みさとさん いいね! 0

昔々の公務員時代、寒冷地手当というのをはじめてもらったときのこと、民間会社に勤めていた父は確か≪石炭手当≫と言っていたのではなかったか、と思い至った。子どもの頃に我が家の暖房器具が石炭ストーブから石油ストーブになってからもしばらくは≪石炭手当≫と言ってたっけなぁ~。

どーでもイイひとさん いいね! 0

暖房手当というのは聞いたことがありますが、石炭手当とは。時代を感じますね。

子供の頃、学校のストーブは石炭が燃料のダルマストーブでした。
給食の牛乳が瓶入りの頃だったので、蒸発皿に牛乳を入れて温めてホットミルクにして飲むのが楽しみでした。

ちゃっこさん いいね! 0

炭鉱かぁ…。身近な存在ではなかったので、残念ながら語ることはできません。しかし、石炭ストーブは懐かしいです。道内出身なので小中高は石炭ストーブ!日直は面倒くさいですが、不良が悪さをすると彼らが石炭運び!ラッキー!とか、ストーブ付近の席に当たると熱くて教科書を立てて壁にしたり、休み時間はストーブをみんなで取り囲んだり、懐かしい思い出です。

ピーコさん いいね! 0

ストーブ付近の机に不用意に触るとアチチってなりました

中学1年の時だけ、古い校舎だったので、石炭ストーブでした。やはり、たきつけ用の薪、新聞紙、石炭を取りに行くのは日直の役目でした。また、ストーブの上に蒸発皿を置くのも日直の仕事で、買って貰ったばかりの新しいスクールコートを焦がしてしまい、親に怒られ、その後3年間ずっと我慢して焦げたコートを着る羽目になった苦い経験を思い出しました。最近は石炭を見る事も無くなって、忘れかけていました。

虎太郎パンダさん いいね! 0

焦げたコート… それは切ないですね

私は道内出身ではないので、石炭と言えばSL。子どもの頃はもっぱら木炭や石油ストーブ見て育ったせいか石が燃えるのが不思議でした。私の生まれ育った所は炭鉱の町ではありませんが、人口が減り寂しくなってしまいました。人が離れていくと町は活気がなくなってしまいますね。

ままちさん いいね! 0

炭鉱が閉山し離職した方が近くに引っ越してきました、何かの時黒手帳と言われたものを見せていただきましたが何に使うものかその時はわかりませんでした、今わ会社を退職しあの時の黒手帳の意味も少しは理解しました

ごんさん いいね! 0

関西で生まれ育ち、結婚後に北海道に移住した私にとって、炭鉱や石炭は正直なところ身近ではありませんでした。高倉健さん主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』を観て、活気があった頃の炭鉱の町の様子を知ったようなものです。夕張や赤平などに行くと独特の雰囲気を味わえる一方で、寂寥感を感じるのは私だけではないでしょう。貴重な遺構などを新たな産業や観光に活かして、当時の面影を偲ぶ事が出来ないものかと思います。

すみれさん いいね! 0

わたしも炭鉱の町を訪れると、当時を知らなくても懐かしいような寂しいような感じがします。

小中学校(東京)の冬の暖房は、だるまストーブに燃料は東京ガスが排出される「コークス」でした。コークスで襟元の刈り上げ部分を触ると、髪の毛がコークスの細かい穴に入りチクチク引っ張られたのを覚えています。

fukutanさん いいね! 0

3ページ

 子供のころは貯炭式ストーブでした。燃え殻は、今のゴミステーションのように、捨てる場所が定められていた記憶があります。
 道路は、土ぼこりが舞わないようにコールタールが撒かれていました。

ともくんさん いいね! 0

子どもの頃、石炭はいたるところに溢れていました。学校のストーブ。家のストーブ。はてはSLの列車まで。あのじんわりする温かさは世の中のゆっくりとした流れに合っていたと思います。迅速や清潔を求められるのは時代の流れ。

東方神起ペンさん いいね! 0

今は昔、北海道は炭鉱を中心に栄えた街が多くありました。その殆どは炭鉱が閉山後衰退していきました。代わりになる産業が育たなかった、その結果です。観光を中心に舵を切った夕張市が、いの一番に破綻状態になったのは皮肉なかぎりです。街単体で頑張っても限界があります。もっと広い自治体、北海道や国がある程度の道筋をつくらないと無理なのではと思います。
現状では衰退するままですね。

北方不敗さん いいね! 0

夕張の炭坑見学に興味を覚え行きました。去年の火災があり非常に残念です。

みゆままさん いいね! 0

小中学時代の教室は、石炭ストーブでした。
スコップで、石炭をストーブに入れて教室まで運んだことを思い出しました。
午前中に燃やし過ぎると、午後からの授業は石炭が無くなり寒い中で耐えました。
石炭の燃えかすの匂いが懐かしいです。

こんちゃんさん いいね! 0

小さな頃ルンペンストーブをたくのが大変でした。灯油ストーブになりうれしかったです。また、炭鉱の事故のニュースを耳にするたびにかわいそうにと思いました。石炭産業が寂れてしまいこれからどうなるのか不安でした。炭鉱で働く人は、釧路では高収入と言われていましたが、命がけの仕事だったのですね。今、便利な世の中ですが、ブラックアウトになると困ります。資源を大切にしたいです。

cowkoさん いいね! 0

予備校生の時、南小樽から桑園へ朝7時台の汽車で通っていました。通勤通学列車で、座れることはめったになく、こっそり郵便車に乗っていました。その中へ入れた時は快適でしたが、デッキに立った時は、トンネルを抜けるたびに煤煙に悩まされました。

賢吉さん いいね! 0

子どものころ わたしの父は公務員でしたが公舎が不足していたので三笠の先の幾春別に住んでいました。周りは炭鉱で働いている人たちがたくさんいました。炭住があって炭鉱と言えば思い出します。

koyukiさん いいね! 0

中学校のだるまストーブ。そばの棚に弁当を置いて温めておいたものでした。

けいこちゃんさん いいね! 0

近すぎてお弁当箱が溶けてしまったり…

昔室蘭に住んでいましたが、昔使用した石炭のつみおろし設備が港にありました。

めるもさん いいね! 0

北炭夕張鉱の事故をビデオで見たことがある。あれは、間違いなく人災だ。

たっくんさん いいね! 0

石炭世代ではないので、特に思うことはない。

みーくんさん いいね! 0

石炭を家の中に運ぶのが、弟と私の仕事でした。
スコップですくって金物バケツに入れるときに、ほこりが舞うのでとても嫌だった思い出があります。煙突にもすすがついて、お掃除がとてもたいへんでした。

リンクさん いいね! 0

ストーブで石炭を利用した記憶はないのですが、私が小学生の時に同級生の父親が炭鉱で働いていたのですが、生き埋めにあったと言うはなしを聞いたことがあります。
「石炭=怖いもの」と言うイメージが強いです。

さささの母さん いいね! 0

子どものころ札幌の市営住宅でしたが、物置の地下に石炭の貯蔵庫がありました。冬の夕方になると母がスコップで石炭を出していた姿が思い出されます。いつから石油になったのか覚えていませんが、確かに石炭が生活を支えていた時代がありました。

takuさん いいね! 0

市営住宅にも石炭貯蔵庫があったのですね! 知らなかった〜。

4ページ

小学校の石炭ストーブが、がんがん燃えていたのが思い出させられます。自宅はまきストーブでした。

hawktipさん いいね! 0

南大夕張の炭鉱で働く叔父夫妻の家に遊びに行ったのが昭和40年前半。
その頃はまだ蒸気機関車で尋ねた。
トンネルに入る直前に窓を閉めてと乗客同士が声をかけていたのが印象的でした。
煙がみんな車両に入ってしまうんですね。
当時住んでいた静岡県ではない光景で驚いたことが懐かしいです。

なおさん いいね! 0

石炭ストーブに関する私の紙の思い出は、なんといってもデレッキと十能です。
子供の時分、親のいうことを聞かなければデレッキでぶったたくぞ!と脅され、子供たちには仕置きの道具として恐れられていました。懐かしい思い出です。

rittuさん いいね! 0

デレッキ?十能?今の子どもたちには通じないかもしれませんね。

小学生、中学生の時の暖房は石炭ストーブでした。自宅も、私が大学生のときまでは、石炭ストーブでした。ストーブには「湯沸かし器」が直結されていて、朝は、そこから洗面器にお湯を汲み、顔を洗っていました。

ヤマガラさん いいね! 0

昔、札幌駅が高架になる前のことですが、大学まで石炭列車の引き込み線が入ってきており、暖房は石炭を燃料としていました。学部毎に炭小屋があり、夜には暖房が切れ、寒い思いをしました。

おじさんさん いいね! 0

石炭は、産炭地から鉄路で室蘭などの港に輸送され本州へ送られたと思います。その鉄路の近くに住んでいた私は、長い貨物列車がガタゴト通るたび、左右に揺れて線路に落ちる石炭を拾い集め、家に持ち帰ってストーブの燃料にしました。拾ってもわずかな量でしたが、子供心に宝物を得たような気持でした。今では鉄路に立ち入ることなど到底できませんが、ポケットに入れた石炭のごつごつした感触を思い出します。

tentenさん いいね! 0

うわー、そんなこともあったんですね! 貨車からこぼれ落ちる石炭。

炭鉱の町で生まれ、育ちました。どんどん炭鉱がつぶれ、友達も転校し、幼稚園、小学校、中学校がなくなりました。一番の悲しい記憶は炭鉱事故でたくさんの人が亡くなったことです。

あきおのははさん いいね! 0

私も道外出身なので、炭鉱というものの直接の思い出はありませんが、小学校時代のストーブでコークスを使って燃やしていたのが記憶にあります。後は夕張の「バリバリ夕張」遊園地、博物館に子供を連れて遊びに行った事ですね。夏休みなのに入場者(私たち含め4~5組)より年配の係員の数が多くて、違和感を感じたのを覚えています。

ダークサイドさん いいね! 0

札幌生まれ・育ちで、炭鉱と直接関係はありませんでしたが、家には「石炭小屋」があり、「石炭手当」で買った石炭が、寒くなる前に運び入れられ、一冬の暖房になりました。夏もお風呂は石炭で焚いていて、今は死語の「十能」や「デレッキ」を使って火の管理を子どもでもやっていました。小学校中・高学年頃に炭鉱離職者の子弟が沢山転入してきたのが、直接に一番近い関わりだったでしょうか。

猫野コネさん いいね! 0

釧路で育ちました。実家にあった石炭ストーブ。定期的に父と母が煙突掃除をする姿が思い出されます。

みわんこさん いいね! 0

祖父が炭鉱に関わる仕事をしていたと聞いたことがあるので、北海道で身近なものなのかなと感じました。

ゆいさん いいね! 0

当時炭鉱で使う資材を納入していた会社に勤めていた。時の政府より石炭政策が発表された日、会社中どんよりした空気になり皆言葉少なになったのが思い出される。

タロさん いいね! 0

石炭ストーブを子供の頃たいていました。家族皆が一部屋に集まり、デレキでかきまぜ、魚の骨を焼いて食べていました。

メーメーさん いいね! 0

学生時代の下宿の庭先は、冬場になると、石炭が山盛りに積まれていました。大家さんの勤め先からの燃料手当とのことで、当時は現物支給だったのですね。

nobuさん いいね! 0

燃料手当が石炭の現物支給!貴重なお話です。

我が家の暖房も一時期は石炭でした。炭鉱のことはわかりませんが、夕張は石炭がとれたんですよね。学校の暖房も石炭だったかなあ。あまり記憶はないけれど、ぼろぼろの木造校舎で、ストーブの周りは当然暑いですが、冬場は超寒かった記憶があります。時代変わりましたね。だって石炭は黒いダイヤとも呼ばれていたんですよね。現在60歳になった私の記憶です。

chokoさん いいね! 0

5ページ

北海道の石炭、炭鉱の発展は輸送する 鉄道網の発達も大きな要因のひとつでしょう。

まさくんさん いいね! 0

先月、家族旅行で夕張に泊まりました。石炭博物館に行き、初めて本物の石炭を見て、触りました。見た目より軽くてびっくり。昔の夕張に思いを馳せる一日でした。

じゃまいかさん いいね! 0

幼少時に炭鉱町に住んでいました。
札幌からの転校だっため、いろいろな意味でカルチャーショックを受けました。
ざっくりいうと、荒々しく男っぽい気風という印象が強かったです。

MNBさん いいね! 0

出産を控えた頃、手伝いに来てくれた母を夕張石炭博物館に連れて行ったのを思い出しました。
歴史を振り返り、感慨深いものがありました。

トミーさん いいね! 0

子供の頃夕張に住んでいました。祖父が炭鉱関連の仕事をしていたので母から炭鉱全盛期の暮らしぶりを聞くことが多かったです。炭鉱の社宅は冬は薪や石炭が配給されていたり公売が充実していたりと羨ましい暮らしぶりだったそうです。

nogunoguさん いいね! 0

学生の頃、赤平の炭鉱跡地で行われたアートイベントに参加しました。炭鉱の跡地はまだまだ有効活用されているとは言い難いと思います。色々なイベントで使われると嬉しいです。

ショウジさん いいね! 0

石炭といえば、小学校の石炭ストーブです。
給食の牛乳をストーブの蒸発皿で温めてホットミルクにして飲んだことを思い出します。

ニャンクルさん いいね! 0

子供の頃、両親に夕張の石炭の歴史村に連れて行ってもらった事を思い出しました。
子供ながらも北海道と石炭の歴史を感じることができました。

ガムボールさん いいね! 0

小学生の頃、まだ給食は無く、男の子たちは、冬になると石炭ストーブの上に、冷たいお弁当をのせて、お湯を少し入れてご飯を温めて食べていました。沢庵の漬物が温められると匂ってきていました。女の子は石炭ストーブの周りにお弁当を並べていました。

mikiさん いいね! 0

炭住に住んでいました
共同浴場で牛乳風呂と言い真っ白なお風呂でした
番型の炭鉱夫が丘に上がってくると、浴槽が直ぐ黒くなったのを覚えています

クマさんさん いいね! 0

趣きがあって好きです

けいこまりさん いいね! 0

直接関わったことはありませんが、資料やテレビで歴史を知り、勉強しています。

ねこ吉さん いいね! 0

おじいちゃんが昔、手稲鉱山で働いていました。小さいとき、長屋やお祭り等々楽しい思い出です。田舎でしたが、楽しい思い出です。今では、すっかり町も様変わりして、面影が消えていますが、札樽道を通るたびにむかしを思い出します。

りりさん いいね! 0

落ち着くので見るのが好きでした

よまたけさん いいね! 0

高校まで石炭ストーブでした。ストーブの上でお湯を沸かしていたので、レトルトのカレーを温めて
冷たいご飯にかけて食べたりしてました。

ヒロミさん いいね! 0

6ページ

本州に住んでいた私達の教室に配られるのは石炭では無く亜炭でした。多分その方が安かったんでしょうね。ストーブの周りは木の机からヤニが噴き出るほど暑く、周りのネットに干していた手袋の内側が焼けて無くなっていた事も。でも教室の端は寒かったな〜

nuttyさん いいね! 0

亜炭ですか。北海道ではあまり馴染みがありません。わたしが知らないだけ?

子供のころ、札幌は雪が黒いススで一杯でした!
だから雪解け水の水撥ねには、とても苦労しました。

nobuさん いいね! 0

本州で育ちましたので、子供の頃の暖房はこたつと火鉢でした。お正月には火鉢に網をのせてお餅を焼いていました。懐かしい思い出です。

よっこさん いいね! 0

私が通っていた高校は、当時札幌市内で唯一の石炭ストーブの学校でした。ストーブ前の席は暑くて死にそうなのに、ストーブから離れた席は寒くて寒くてこごえていました。クラスメイトはストーブの上のタライで、よくレトルトカレーなどを温めてお昼に食べていました。私は家からアルミホイルに包んだサツマイモを持っていき、おやつにみんなで焼き芋を食べていました。昭和の懐かしい思い出です。

向日葵さん いいね! 0

小学校は石炭ストーブでした。石炭当番のとき運んだ石炭が重かったこと、給食パンを焼いたり、牛乳を温めたり、雪で濡れた手袋や靴下を乾かしたことが懐かしい思い出です^^

まゆさん いいね! 0

北海道育ちではないのですが、長野の祖母の堀ごたつが石炭でした。とても温かかった覚えがあります。

めぐちゃんさん いいね! 0

今から28年位前のことですが。夫の転勤で釧路の白樺台に引っ越しました。息子の転校した小学校では、まだ石炭ストーブを使っていました。小学校2年生だった息子は、初めて見る石炭が、とても珍しかったらしく、素手で触ってしまい、真っ黒にしてしまいました。当時息子のお友達のお父さんや、おじいさんが、炭鉱で働いている人が、何人かいましたよ。

うにあられさん いいね! 0

炭鉱=石炭=木造の小学校
冬、教室は寒くストーブの付近の子だけは、真っ赤な顔をしていた・・・
持参の弁当を温めた記憶もあるんだなぁ~ 昭和も遠くなけにけり!

ふふさん いいね! 0

祖母の家には、昔メガネの形をした薪ストーブがありました。木造住宅で寒い冬を乗り越えるために必需品だったようです。

のんさん いいね! 0

メガネの形をした薪ストーブ、我が家でも2000年頃まで使ってました!

筆者さんと同世代ですか。小学3年生頃まで教室には石炭ストーブがあり、日直係二人で石炭庫から教室まで、石炭を運んたものでした。

昼休みには、皆で丸い大きな石炭ストーブを囲み、お喋りしたり、給食のパンを焼いて食べたことを懐かしく思い出します。
また、幼少期我家の浴室は父の手作りで、石炭を焚べて風呂を沸かしてくれました。
私もデレキで掻き回したものでした(北海道の方言かな)
あ〜懐かしい...

猫子さん いいね! 0

高校の時、日直は早く登校して石炭を取りに行った思い出があります。ストーブの近くの棚にお弁当箱を置いて、温めて食べました。

hosinoyumeさん いいね! 0

高校卒業まで三笠市の炭鉱町で育ててもらいました。住んでいた長屋は暖房はもちろん煮炊きも石炭ストーブでしたので、子供の頃のお手伝いは石炭運びでした。公道に配給された石炭を、蓋の無い大型ランドセルのような木製のしよいこを担いで、家の石炭箱に前屈みに頭の方から下ろすのですが、重いのと首筋に石炭くずが入りイヤな思いをしたものです。今は懐かしい思い出ですが。

さぼちゃんさん いいね! 0

若い為炭鉱の記憶はありません。しかし、親世代から夕張が栄えており炭鉱全盛期の話を聞いたりしています。

つほさん いいね! 0

私の石炭の思い出は小学校のときの教室のストーブです。晴れた昼休みに雪景色の校庭に出て駆けっこして転んで雪だらけのセーターをストーブの近くで乾かしました。火力が強いので下校までには乾いて着て帰った思い出があります。中学校からは、石油ストーブに替わりました。ちなみに小学・中学は上富良野です。

ニペソツさん いいね! 0

未来への輝く遺産として財産として残したいです。偉大な遺産や財産をもとに、新たな技術を生み出し更なる北海道の発展を期待しています。

ミュラーさん いいね! 0

7ページ

夕張の炭鉱博物館が今年、火災にあいましたが、その前に行ったときに、キラキラと光り輝く石炭を見て、石のダイヤ・・・と云われていたのが、よく判りました。

まぶさん いいね! 0

父の実家が北海道三笠の唐松でした。私がまだ幼かった頃、自転車で転んで膝をすりむいてしまい、
その時の傷に炭鉱特有の真っ黒な砂というか石、炭が私の膝に残ったまま成長しまして
今でも炭が入ったままです。特に生活に支障はなく、膝を洗うたびに懐かしさでいっぱいになります。

さちりんこんさん いいね! 0

ご自身の膝を見るたび幼い頃が思い出されるなんて、うらやましいような、うらやましくないような… あ、そういえばわたしも手のひらに鉛筆の芯が。

私の子供の頃はもう灯油のストーブでしたが祖母の家は石炭ストーブでした!火傷をしたら大変とストーブの近くには寄ることはなかったけどとても暖かく祖父が石炭を足す作業が目に焼き付いています!
古き良き時代です!

サティさん いいね! 0

時は、昭和48年のこと。札幌の火葬場は、平岸にありました。今は地下鉄・平岸南駅となっていますが、当時は平岸霊園駅と言いました。この駅から300メートルほど離れた丘の上に火葬場があり、この火葬場で遺体を灰にするには、良質のブレンド石炭を使っているとのことでした。良い石炭を使用しないと遺体を綺麗に早く灰にできないからです。この話は、施設見学をした時に施設職員の方からお聞きしました。

あおちゃんさん いいね! 0

石炭のテーマで火葬場のお話が聞けるとは。興味深いお話です。

私は道外の出身で小学校も中学校もスチームでした。なのでこちらに越して初めて「ストーブのまわりは熱くてぼーつとした」とかの思い出話を聞きました。

ピーさん いいね! 0

小学校のストーブの上に水をはったたらいを置いて、牛乳を温めて飲んだなあ

うさぎさん いいね! 0

高校時代、数学の授業の席が石炭をくべる係の場所で、授業中に石炭を入れるのが恥ずかしくて、授業が始まる前に大量の石炭を入れたら、授業中ものすごく暑くなって先生が汗をかきながら授業をしていたのが思い出されます。

豊青さん いいね! 0

近所の貧しい人が炭鉱で働きに行きました。給料は高いが危ないといっていました。

rajaさん いいね! 0

 石炭ストーブが、真っ赤になっても暖まらない、隙間から雪が入り込む断熱材の無い、古い木造の小学校を思い出します!

ゆーみんさん いいね! 0

石炭といえば、こたつです。田舎では、石炭こたつ使ってました。

けいたさん いいね! 0

父が炭鉱に勤めていました。なので転勤が多かったです。夕張、札幌、三笠、赤平、歌志内と~。私は中学から私立の学校に通い中2で寄宿舎に。夏休みに帰省するとき転勤していて初めての所へということがありました。石炭ストーブが懐かしいです。あの暖かさは石油ストーブとは全然違うものです。

hmwestさん いいね! 0

炭鉱の町を方々見られてきたのですね。興味深い体験をされたのでは。

小学校から高校卒業するまで教室には石炭ストーブが鎮座していました。座席がストーブの前の事も多く、動作も鈍かったのか石炭箱から石炭を掬う際の音がうるさいと教壇から怒鳴られた事もありましたが一番の憂鬱は休み時間に女子がストーブ前に陣取っては上から目線で「何やってんの!?」といつも茶々を入れられる事でした。

熊五郎さん いいね! 0

まさに冒頭の『私の石炭の思い出は小学校・・・・・・・』と同様です。
小学校といえば自分も60年も前のことですが、ストーブのそばの席の人は、顔が熱くて赤くなっている人もいました、火力が強く燃えだしたら止められないのです。
しかし、石炭で火事になったりは聞きませんでした、今ならとても危険といわれるでしょうね。

ふーこさん いいね! 0

私の母(78)は芦別出身なので炭鉱の話はよく聞いていました。今では想像もできないほどにぎわっていたとか。
実際私が子供のころ、祖母の家の風呂は石炭で沸かしており、物置には石炭を入れる大きな入れ物があったのを覚えています。
お風呂を沸かす臭いが懐かしく思い出されます。

mikioさん いいね! 0

親戚の叔父が昔炭鉱マンだったと聞いた。炭鉱事故にあったことがあったので生死をさまよったなどと聞いた事がある

なぽちゃんさん いいね! 0

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炭鉱といえばやはり夕張ですかね?正直、平成生まれの道外出身からするとあまりイメージが沸かないですが昔は炭鉱のおかげで成り立ってる街も沢山あったんでしょうね。あとはモクモクと黒煙漂うSL機関車もイメージの中にはあります。

亜梨さん いいね! 0

薪ストーブから石炭ストーブは蒸気機関車からジーゼル客車が室蘭本線を走った頃で、懐かしい思い出が豊かな生活を送った学童時代でした。
石炭ストーブの横は石炭箱とデレッキが、温かく円卓はいつもにぎやか。
夕張炭坑から黒い顔の炭鉱夫、苦労に感謝したものでした。

ゆうさん いいね! 0

炭鉱に住んだことは無いが、家も学校も暖房は石炭ストーブであった。特に昭和40年入学の高校では生徒2名を当番にして、毎朝、バケツ1杯分を石炭小屋に取りに行き、二人で両側から持ち、それが限度であった。教室はなかなか暖かくならず、しばらく防寒コートを着たままであった。

茶トラさん いいね! 0

2時間目ぐらいまではコートを着たままだった記憶があります。

戦前の事ですが、母方の叔母が三笠市幾春別で探鉱の作業員を手配する仕事をしている人と結婚しその家で作業員の賄を手伝っていたことがあるという話を聞いた事が有ります。その後母は農家に嫁いだ私が生まれたのは戦後ですが、従弟も何人かいてその中の何人かは交流もありました。私の物心付いた頃の70年代には北海道の炭鉱も衰退の一途の時期で、炭鉱はイコール事故と斜陽産業のの印象が強く残っています。

三毛猫のパパさん いいね! 0

中学校は、コークス、高校は石炭ストーブでした。

rakichiさん いいね! 0

道外出身者です。炭鉱や石炭は、身近なものではなく、どこか別世界のように感じていました。でもお知り合いになった高齢のご婦人が炭鉱経営に深い関わりのある方で、驚いたことがあります。
幼少期には、大阪の祖母が七輪で料理をしていたこととその匂いを今、思い出しました。

ぷーちゃんさん いいね! 0

今は亡き、かあさん・とうさん、そして兄貴・弟との煙突掃除が、 思い出されます。

あの独特の掃除機の形状、煙突に通した音、煤の霧散、そして石炭の匂い等、懐かしくもあり、哀し

さも、漂います・・・脳裏に・・・・

あります・・・・・

tonkさん いいね! 0

男の中の男って感じします

ケンケン3さん いいね! 0

私が小学校のころ教室は石炭ストーブでした。体調が悪く体育の授業を欠席することになり、一人教室でストーブの火の管理を頼まれました。なんとなく自信がなく不安だったのですが、石炭を一度に入れすぎたのでしょう、だんだん火が弱々しくなり、あれこれやっているうちにとうとう消えてしまいました。教室はみるみる寒くなり体育が終わったみんなに寒い思いをさせることに。怒られはしなかったのですがとても苦い思い出です。

たかさん いいね! 0

リモコンでピッ の今からは考えられない苦労ですね。あれこれ悪戦苦闘している姿が目に浮かびます。

北海道に住んで、49年もう、寒くて、雪かき嫌で。。と、不満タラタラでしたが、この歳になり、ようやく寒いが暖か後、感じてます。
ばぁちゃんの石炭ストーブ。石炭お風呂。香りが、懐かしいです。

サンスーさん いいね! 0

私は炭鉱町の歌志内市の出身です。昭和30年代頃はとても盛んな街で活気ついていましたが、石油の台頭で街はすっかり寂しくなりました。盛んな時代は貸し切りの機関列車で街中の人達と海水浴にいったこともありました。炭鉱祭りもサーカスや出店が出て、とてもワクワクしたのを覚えています。盆踊りも仮装した人が参加したりして、今でもあのころを懐かしく思い出しています。

たかこひめさん いいね! 0

歌志内市は現在の10倍ほど人口があって、とても活気のある町だったそうですね。貸し切り列車で海水浴とは!

小学生1年生の時に石炭ストーブでその周りだけ暑くて離れる席だけ寒くて大変でした、今もとても印象深い記憶があります。2年生になったら新校舎になり石炭ストーブほその後一気に世の中から消えていきました、寂しいですね。石炭に主要な産業がなかった夕張も絶好調から一気にその後最悪な時代に陥りましたね、今では夕張も良い方向に向かっていますが。子供の頃SLに乗りましたが窓を開けているとみんな真っ黒になってました笑

younet@hotmail.cさん いいね! 0

軍艦島に 
いったことがあります!炭鉱の命がけさにびっくりしました

momoさん いいね! 0

北海道在住ですが、炭とは縁もゆかりもありません。
しかし、誰しもが少年少女の頃に絵本やアニメ、公園で見かけた機関車に一度は胸躍らせたことがあるはず。
主役が動くために必要な黒い石。その黒い石が持っている大きなエネルギー、そしてそれを掘り起こしている縁の下の力持ちたちにはなんとロマンが詰まっているのだと成長とともに気づくことができました。

マメ子さん いいね! 0

夕張の石炭博物館がとても思い出があります。
道内にはたくさん炭鉱があったので、見に行きたいです。

つとさん いいね! 0

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炭鉱の仕事は大変だったと思います

みーママさん いいね! 0

石炭ストーブは着火するまで大変だった記憶が?
思いうかぶのは石炭飴。

氷下魚さん いいね! 0

その頃を知らない私にとっては逆に新しい感じ…。

メロンさん いいね! 0

 当時、父親が炭鉱会社の社員でした。 石炭が無料だったとか? 有り難い事ですね!

国士無双さん いいね! 0

子どもの頃、家の暖房は石炭ストーブでした。ストーブの部品が劣化してよく壊れるのがあり、寒い日ですと、朝から部屋の中がひんやりしており、とても切ない気持ちになった記憶があります。

きたの旅人さん いいね! 0

私は石炭の町『赤平』に生まれました。家のストーブは 石炭なのが普通でした。自分では難しくて ストーブを燃やす事ができませんでした。石炭をストーブに入れる事はできましたが 燃やし始めが子供の私には難しいでした。小学校六年生で『閉山』になりました。学校から帰って遊びに行くのが自電車で石炭を積んだ『トロッコ列車』が通る橋を渡るのがとても怖くて いつも左右確認して渡るのを覚えてます。

toshicyanさん いいね! 0

スイッチオンですぐ暖まる現代からは考えられないですね。今の子どもには無理でしょうが、当時の子どもにも難しかったようです…

余市ニッカウヰスキー蒸留所で石炭をくべているのを見るのが好きです。

シュガッチさん いいね! 0

空知近郊は石炭産業が栄えた街。今でも石炭ストーブが我が家にあります。

MAKOTOさん いいね! 0

これこれ40年前、札幌の幌南小学校で石炭ストーブでした!(コークスと言っていたけど、石炭とコークスって違うのかな?)ストーブの近くの席は顔が真っ赤になるほど暑く(というか‘熱く’)。蒸発皿の水もすぐになくなりました。今なら沸騰した蒸発皿が教室にあるなんて危険すぎですね(-_-;)

ああたんさん いいね! 0

水がなくなって熱々の蒸発皿に水を足す瞬間が恐怖でした!

学生時代、実習で夕張に約1か月住んでいたがすでにその時は斜面に建てられた炭住はほとんど利用されていなかった。3年ほど前、夕張を訪れたが当時どこに住んでいたのかわからないほど変貌していた。

ウーサンさん いいね! 0

炭鉱のお陰で北海道の街は発展したと思います。今でも残っている市で人口1万人未満の市は、炭鉱と石炭で一時期大発展をしていたのですね。炭鉱の町は、全道にあり、今では過疎化になって残念だと思います。私の石炭の思い出は、冬が来ると、石炭置き場から毎日バケツに石炭を入れて重い思いをしながら、今まで運んだ記憶があります。その頃は大変でしたが、今となっては懐かしい思い出です。

ヨコ母さんさん いいね! 0

炭鉱がなければ、今の北海道もありませんね。

石炭は生活の中にはありませんでした。夕張の石炭の歴史村というテーマパークがありましたが、行く機会が無いまま閉園。美唄、篠津、芦別など廃坑になった炭鉱の再利用を考えてもらいたいです。

わかめさん いいね! 0

炭鉱によって栄えたものもあったが、粉塵による障害などあとに残る不要なレガシーもあった。

Pえにさん いいね! 0

小学生の頃、祖母の家に行ったら、石炭ストーブでした。 ストーブの上で「するめ」を炙って食べたのを思い出します!

タカちゃんさん いいね! 0

母が炭鉱の街に住んでいました。当時の活気を思うと懐かしいようです。

キイさん いいね! 0

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住んでいる所は炭鉱のまちではなかったが中学校のストーブはコークスでした。高校も石炭ストーブでした。使い終わったら灰を取って校舎裏に捨てに行っていました。近くのまちの炭鉱ももう閉鎖していましたし他の学校は普通の暖房でしたし家も石炭を使った世代でもなかったですが、学校が石炭ストーブで逆に体験できて良かったと思っています

masyoさん いいね! 0

炭鉱と聞いたらやはり夕張ではないでしょうか?
昔の炭鉱の軌跡も残っていたはず!
当時を知りませんが歴史を感じます。

キューさん いいね! 0

炭鉱の町美唄で生まれました。
銭湯が無料だったと両親から聞かされて育ちました。いい時代だったんですね。

世界平和さん いいね! 0

昔、炭鉱があり、それによりたくさんの雇用があった一方、それが原因で病気になった人や崩落で亡くなった人がいることも忘れてはいけない。

あんずさん いいね! 0

まだ生まれていない時期だったので、昔の話、歴史の話というか印象です。炭鉱が賑わっていた時の北海道を見てみたいなと思います。三笠市の高校生レストランに売っていた石炭クッキーがとても美味しいです!!!

ちくわさん いいね! 0

三笠高校はレストランを運営していますね。 今度行ってみたい!

道内の学校ですが、まさに同じです。日直は朝、石炭を取りにいって火をつけました。当時の校舎は隙間だらけで、一度しもやけになったことがあるほど。でも、ストーブの近くは猛暑状態。そのくらいの火力でないと教室が温かくならなかったので。ストーブ近くの子たちの暑くて赤くなったほっぺが忘れられません。

ビビの父さん いいね! 0

小学校低学年まで教室が石炭ストーブでした。
冬のスキー授業の後はみんなで競い合うようにストーブの周りをかこんでいました。
アノラックを焦がしてよく母に叱られた記憶があります。

かなさん いいね! 0

アノラックを焦がすのは定番ですね!

昭和46年に戸建を建てた時には、風呂釜が石炭使用で、車庫の隣に石炭の置き場所がありました。石炭の赤あかと燃える炎の色が一層暖かさを感じさせてくれて、熱い風呂が大好きな家族にとって、石炭で炊く風呂は格別の心地よさでした

フリージアさん いいね! 0

小学校から高校まで教室のストーブは石炭でした。高校の時は、ストーブに乗っている蒸発皿で、ビンの牛乳やレトルトカレーを温めてお昼に食べました。蒸気機関車が走っていて、車内にだるまストーブがありました。行商のおばさんがスルメを炙っていた。懐かしい!

ばんびさん いいね! 0

私は鉄道ファンでSLを見て炭鉱の歴史を知りました。昔の映画などでは真っ黒になって働く男の姿が鮮明に映し出されそこがとてもかっこ良く汗の匂いも感じとれるようでした。現在では利便性や環境問題で考えられない世の中となってしまいましたがキャンプするとき炭を使うとなんだかほっとさせられます。日本遺産に制定されたことがきっかけとなり人々がふたたび注目してほしいです。

るいるいさん いいね! 0

忘れずに、記憶をつなぎたいですね!

今も炭鉱の歴史が残る夕張や三笠に行きます。博物館などで歴史を学べる場所を残して欲しいです。

みるさん いいね! 0

小学校の教室のストーブは石炭をくべていた。

とらふくさん いいね! 0

昭和53年学校を卒業と同時に以前歌志内にあった空知炭鉱・その後夕張にあった三菱大夕張炭鉱で働いた経験がありその後転職し平成19年財政破綻した夕張で働くことになりその衰退振りを
目の当たりにした際はショックでした。

ベンタカさん いいね! 0

歌志内、夕張と、まさにその目で見られてきたのですね。ぜひ語り継いでいただきたいです。

小学校から高校まで教室に石炭ストーブがあり、何故か私は石炭を取りに行く係をやりました。ありがたい事に席がストーブに近いので寒い思いはしなくてすみました。石炭のあくで玄関前に巻いて滑り止めにしてました。今は石油ストーブが使用が多い家庭がほとんどですね。エアコンを利用している家庭もありますが石炭のストーブは火力が強くて今の学生は石炭ストーブを見た事がない人が多いでしょうね。

フ゜レヒ゛ュシネマさん いいね! 0

炭鉱で働いていた人は大変だったと思います。
汚れた空気のなかでの肉体労働は、大変だったと思います。

str777さん いいね! 0

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炭鉱が事故も多く大変な重労働。今はガスや電気へと変わり科学の発展の恩恵を改めて感じます

hukuさん いいね! 0

私が小さい頃は石炭や薪は生活に欠かせませんでした。冬が近づくと家では祖父が薪割をし学校では用務員さんや先生がストーブの準備をしてくれました。生徒はそのうえに蒸発皿を置き水汲みがをしていました。加湿器のような存在です。近くの席になるととにかく熱くて顔がやられるので授業どころではありませんでしたが現在のように温度設定もできないので地獄だったけれどそれでもどこか懐かしい匂いがしてきます。

せっちゃんさん いいね! 0

日本遺産に制定されたのですね!知らなかったです。私はあまり石炭の思い出はないですが、匂いを嗅ぐとなんとなく懐かしい気がします。

ごまさん いいね! 0

「石炭ストーブ」と言えば、「デレッキ」に「ジョンバー」! 懐かしいです!

かのこちゃんさん いいね! 0

デレッキもジョンバーも今の子どもたちには説明が必要ですね

産業を支えるエネルギー源としての石炭は歴史上重要な遺産であり時代とともに新しいエネルギー源へバトンは繋がれてきました。石炭ストーブ、SL、夕張における炭鉱はいづれも記憶に古くないところですのでこの良き想い出を後世に口伝えで残していって欲しいと思います。そして最先端のエネルギー形態が出現してもあの時代は良かったと振り返るのも楽しい。

みゃおさん いいね! 0

子供のころ小学校や自宅でもストーブは石炭でした。とても暖かく(時々熱すぎる)記憶があります。

天茶布さん いいね! 0

炭鉱という物を知ったのは書籍の中であり、どちらかと言えば私にはリアルでは無い物ですが、炭鉱時代を築いた方々が居るからこそ、今の生活があるのだと思います
それは、とても有り難く、決して忘れてはいけない事だと思います

愛美さん いいね! 0

小学校6年の時、父の転勤で赤平市の豊里小学校に転校しました。地域は豊里炭鉱の「炭住」と言われる社宅が沢山あり、同級生の豊里炭鉱で働く人の子弟と楽しい学校生活を送っていました。当時の記憶として、肉屋に北海道では珍しい馬肉があったこと、また、既に豊里炭鉱の経営は厳しかったようで、家庭科の授業で作ったカレーライスに肉が入っていなかったことを記憶しています。その後豊里炭鉱は閉山しました。

ランニングさん いいね! 0

いとこと叔父さんが釧路の炭鉱で働いていましたが、炭鉱が廃鉱し、職を失い名古屋へ引っ越して行きました。
釧路は炭鉱があった頃は活気があり、漁業も盛んで、観光客も多くいましたが、廃鉱となったあとは、漁業もあまり盛んではなくなり、さみしい感じの町になってしまいました。
それ以来釧路には行かなくなってしまったのが、なんだか寂しいです。

yukariさん いいね! 0

釧路の海底炭鉱は健在ですね。魚も美味しい街ですから久ぶりに訪れてみては?

子供の頃、我が家では、煙突に「湯沸しタンク」を取り付けた石炭ストーブを使用してました。タンクのお湯で、顔を洗ったものでした!

ゆーちゃんさん いいね! 0

以前石炭が入ったガラスの飾りを頂いたことがあります。懐かしいです。

はらぽちゃ君さん いいね! 0

いい匂いがした!

ま一ちんさん いいね! 0

とても宝石みたいできれいです。

笑顔日和さん いいね! 0

学校の敷地内に石炭小屋があり、よくかくれんぼに使っていました。

あさひさん いいね! 0

相次ぐ閉山で、これからの北海道経済がどうなっていくのか、とても不安だった高校生時代。

tajizoさん いいね! 0

12ページ

炭住の長屋の思い出が大きいです。日帰り入浴を兼ねて砂川屋赤平あたりをドライブする機会が多いのですが、本当にさびれたイメージが強く残念です。

としちゃんさん いいね! 0

教員住宅のお風呂が、石炭のお風呂でした。新聞紙を使い、石炭に火をつけるのが、得意でした。

いちごさん いいね! 0

昔、家では石炭ストーブでした。なかなか火付きが悪いストーブでした。
ある日、母が火を付けようとしていたら、突然ストーブが爆発しました。不完全燃焼のガスが溜まっていたのが原因でした。
私は近くにいたので飛んで行って「母に大丈夫?!」と言いましたら、母は「えーん、まつげが焦げちゃった!」と言いました。
幸いけがはありませんでした。

もっくんさん いいね! 0

まつげが焦げただけで済んでよかった!でも女性にとって大切なまゆげ、災難でした。

祖父の家の物置に、石炭が、ありました。なくなるまで、石炭ストーブに使っていましたが、とても暖かかったという記憶です。

ひまわりさん いいね! 0

夕張石炭の歴史村の遊園地に行ったことが
楽しい思い出です

ぱくぱくさん いいね! 0

昔のストーブ、懐かしいですね

ミルメイさん いいね! 0

50年程昔、父の会社は冬季に石炭手当と称して現物の石炭を支給してくれました。馬ソリで運ばれてきた石炭を家族皆で物置小屋の中に運び入れるのが、冬を迎える辛い行事でした。

かまちゃんさん いいね! 0

よく知らないです

ちいさん いいね! 0

石炭の思い出は火力の強さから何といってもストーブの周りをみんなで囲んでその温かさにホッとしながらおしゃべりしたり、遊んだり、おやつを食べたりしたことです。なぜかあの温かい火と部屋の暖かさが心まで暖めてくれたことを懐かしく思い出します。

キャシーさん いいね! 0

夕張で育った私の思い出は石炭ストーブです。マイナス20℃近くまで冷え込んだ日もどんどん石炭をくべて赤くなったストーブの暖かさ(あたってる方だけ熱い)は忘れられません。夜も細かい石炭で火止めしておいて、朝空気を送って燃やすのですが時々ボンっと爆発することもあり緊張しながらデレキでつつきました。小学生の頃からです。今の子供にはさせられないですよね。おおらかでよい時代でした。

ははさんさん いいね! 0

今の子はスマホを使いこなすのは得意ですが、石炭ストーブを操る高度なテクニック?はありませんね。小学生の頃からとは、さすがです。

石炭ストーブを使った記憶はないのですが、夕張の石炭の歴史村には学校行事や家族で行ったことがあります。炭坑で賑わってた街の灯が消えていくのは寂しいですね。

れいさん いいね! 0

炭鉱の病院で働いていました。
主任試験を受けるために、病院の専門の他に炭鉱の保安についてなども勉強しました。常に危険を予知しながらの十分な知識と行動、たくさんの人の努力があっての採掘の現場を違う側面から学ばせてもらった、懐かしい経験でした。

ひろひろさん いいね! 0

炭鉱は病院も持っていたのですね。

父が石炭列車の機関士でした。閉山と共に列車も無くなりました。蒸気機関車の匂いを、まだ覚えています。

takahideさん いいね! 0

自分が学生の頃には道内の炭鉱はほぼ閉鉱されていて、廃鉱めぐりをするのが秘かなブームでした。古い地図を参考に訪れても既に跡形もなく見つけられなかったりした記憶が良い思い出です。

マネーさん いいね! 0

本州で育ったので石炭の思い出はありませんが夕張で炭鉱を見学したことを思い出します。

おかるさん いいね! 0

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蒸気機関車の力強い走りに感動したのを覚えています。

poitoさん いいね! 0

石炭の思い出は小中学校時代ですかね。ストーブの前の席になると、暑くて大変だった。蒸発皿の中に牛乳瓶を入れて温めた思い出。当番でのアク投げは嫌でしたね。

pinkyさん いいね! 0

自分が小学生の頃、学校のストーブは電気ストーブでした。
ですが、定年退職間近の担任の話を聞いたところ昔は石炭ストーブで毎朝日直が当番制で貯蔵庫から石炭をバケツに入れて教室まで運んできていた。という話を聞いてとても驚いたのを覚えています。

山茶花さん いいね! 0

小学校のころ、冬になると教室の左前に石炭ストーブが設置されます。そのために座席の位置も変更になり、左側の列の前は、外れ席。暑くてボーッとしたり、時には窓を開けるとみんなに文句言われたり。危ないので、印から前にはストーブには近づけないのですが、授業中先生がストーブに石炭を入れながら調整してくれたり、お湯を沸かしてくれたり、濡れた服を近くにかけて乾かしてくれた思い出があります。

ターミーさん いいね! 0

父親が炭鉱の労働者の息子で、当然、炭鉱の街の出身者です。私は違いますが、昔の写真を見ると炭鉱の街が賑やかだったことが伺えます。

くっしさん いいね! 0

私は釧路出身で、昭和40年代の子供時代は太平洋炭鉱が全盛期の頃でした。町内は90パーセント以上は炭鉱の人で、一番方、二番方など、今で言うシフト制で、学校帰りに遊びに行くとお父さんが寝ていたり、出勤を知らせるサイレンが鳴ったり、どの家の前にも石炭箱があり、我が家は灯油だったので、どんな仕組みで石炭がでてくるのか興味深々でした。いまは炭鉱もなくなり、心に残る風景だけが思い出です。

サリーさん いいね! 0

今は「釧路コールマイン」となり、唯一残る坑内掘りの炭鉱となりましたね。

夕張の炭鉱記念館に家族で行ったことがあります。多くの人々が日本の繁栄のために、命をかけて働いていたことにあらためて心が動きました。今の豊かな生活があるのは、先人の苦労の礎の上にあることを忘れてはなりませんね。

ほくとべがさん いいね! 0

かつての日本の発展を、炭鉱が支えていましたね。

石炭で汽車も走っていましたね。中学校に石炭ストーブありましたね。石炭をくべるとか、そんな言葉も懐かしいです。

ふくさん いいね! 0

確かに「くべる」って日常で使わなくなりました

子供が小さい時に遊びに行った、夕張の『石炭の歴史村』が忘れられません。

かえるさん いいね! 0

父が炭鉱で働いていました。3交代制で生活のリズムが大変だったと思います
子供のころは石炭小屋から石炭ストーブの近くの石炭入れに運んでいました
冬は石炭小屋の石炭が凍っていてつるはしで砕いていたのを思い出します
アク捨てもしてましたね
今思えば石炭のある生活が懐かしく思えます

むら5さん いいね! 0

父が住友奔別炭鉱で働いていましたので私は三笠市幾春別生まれです。閉山で札幌に越してきましたがお墓が三笠市弥生に有り毎年墓参りに行っていました。今も住友奔別炭鉱のて立て坑が残っていますが老朽化で保存も難しいとは思いますが、是非とも赤平の立て坑と一緒に保存して欲しいと思います。

キックさん いいね! 0

父が蒸気機関車の機関士で、運転席に乗せてもらった事が有りました。
真っ赤に燃える釜の石炭が印象に残っています

rieさん いいね! 0

鉄道ファンがうらやむ貴重な体験です!

今はマンション暮らしで都市ガスのFF式ストーブですが、子供の頃を思い起こしてみれば冬はカマダの石炭ストーブでした。煮炊きもできるし、ストーブの回りが真っ赤になって怖いくらいでした。
玄関脇に石炭小屋があったのも、懐かしく思い出しました。

麻生人さん いいね! 0

私の生まれた所は、三笠市の幌内と言うところです。場所は、山間にあり
炭坑住宅街がひしめくようにあり
ました 。炭坑全盛時には、数字は
はっきりしませんが、かなりの人が住んでいました。社員や鉱員の人は
石炭が無料で配布されていました。
燃えた石炭の灰を「あく」を投げるのが、子供心に辛く焼き付いています。
只、今思うと街全体が活気があったように思えました。

ふじふじさん いいね! 0

幌内は全盛期100軒を超えるお店があったそうですね 今は多くの地区で居住者が0人になっています

小学校は、石炭ストーブで、近いと熱いし、遠いと寒い。
給食の瓶牛乳を温めて飲みました。

雪桜さん いいね! 0

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子供の頃小学校、中学校はコークスのストーブがありなかなか暖まるまで時間がかかり、教室が寒かったのが思い出されます。将来暖房機器がこんなに進化するなんてその頃は思いませんでしたが、ストーブを囲んでみんなで手をかざして暖めたのが懐かしく感じられます。

ぶーちゃんさん いいね! 0

小学生の時に重松清さんのカシオペアの丘でという小説を読んだ時に、炭鉱が出てきて炭鉱というものを初めて知りました。そちらも(確か)北海道が舞台でした。炭鉱には色々な物語があるだろうなとは思うのですがそれでもまだ知らないことが多く、勉強していきたいです

もちこさん いいね! 0

小学生の頃、毎年冬近くになると、トラックで石炭が我が家の[石炭小屋]に運ばれてきました。
悪戯をして叱られると、その暗い小屋にとじ込まれました。とても怖かったのも今は懐かしい!
石炭ストーブのあの暖かさ、湯を沸かしたり、焼き芋やスルメを焼いたり…そんな時代がありました。

メガネさん いいね! 0

いまは さびれてしまった
炭鉱も その時代の活気溢れる
生活を 資料館などで
感じてみたいと おもいました。

かなたんさん いいね! 0

炭鉱との関わりはないのですが、炭鉱で頑張ってくれた方々のおかげで今があると感謝しています。

ぽっちさん いいね! 0

母子家庭で母が働いていたので、学校から帰るとまず石炭ストーブを焚くことでした。寒いなか小学校低学年の子供では大変で泣きながらストーブと格闘しました。今でもスイッチ押すだけのストーブに感謝、そしてよく頑張った自分を偉いねと褒めたくなります。悲しい思い出となって記憶しているためか秋が苦手です。

玉屋さん いいね! 0

立派な小学生。よく頑張りました!

とても大変な仕事だと思います

hnさん いいね! 0

炭鉱が町を支えていた時代があり今があるのですね

とらさん いいね! 0

大変な仕事です

nimoさん いいね! 0

幼いころテレビで落盤事故の報道を目にして暗い印象しか無かった。今では懐かしさや美化されたイメージが一般的なのだろうが、一面的に過ぎるような違和感も感じる。

るぴさん いいね! 0

夕張市にある「石炭の歴史村」(以前の名前)へ行った事です。
子供の頃に学校行事で行ったきりでしたが、5年前に前職を退職してゆっくりしていた時期に20年ぶり位に行きました!

あんなさん いいね! 0

本州の生まれ・育ちなので、炭鉱には縁がありませんでしたが、北海道の炭鉱遺産にはとても
興味があります。

ほわさん いいね! 0

小学校は石油ストーブ、なのに中学校はルンペンストーブでした。貧弱な装置から上手に燃やすには、それなりのコツが必要なことを学びました。「炭鉄港」とはいささか強引な組み合わせですが、北海道なりの近代産業遺産の姿と考えることにしています。

三連星さん いいね! 0

東京生まれ、埼玉育ちなので、炭鉱というと『ヨイトマケのうた』『幸せの黄色いハンカチ』『フラガール』テレビの中の世界でしかない。

のりのりさん いいね! 0

炭鉱には特別な思いはありません

うひょーっさん いいね! 0

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小学校の時の暖房は石炭でした。家も石炭でしたし石炭を汲んでくるのも子どもの役目でした。運ぶではなくて汲んでくるでした。

のみすけさん いいね! 0

自分の生活の中で直接触れたことがあるのは、小学校の石炭ストーブの当番で石炭を採りに行ったことと、親戚が火鉢に練炭を入れて暖をとっていたので納屋のようなところに沢山積んでいるのを見た事があるくらいです。匂いがが独特だったことと服に付いたらあとが厄介なので手で直接触ったりしないように気をつけていたことなどを思い出します。

にゃあさん いいね! 0

小学校のストーブはコークスでした。ストーブの近くの席では顔が真っ赤になったなぁ。

こすこすさん いいね! 0

あまり馴染みがないけれど、貴重な資源である石炭を有効的に活用してほしいです。

Muuuさん いいね! 0

すっごく過酷で寒そうなイメージなのですが、日本遺産に制定されたのであれば、ひとめ見てみたいし、旅行がてら、おいしいものを食べたいな、とのんきに考えてしまいます。 北海道に行ったことがないので想像できないなーーー

クララさん いいね! 0

昔は家も学校も暖房は石炭ストーブ。
学校では石炭くべながら勉強したっけ。
ストーブの上でお餅やスルメを焼いたり、懐かしいな

amiさん いいね! 0

建て替える前の一年間だけ、高校の教室は石炭ストーブでした。
高校生ともなれば昼休みになるとストーブの上で缶コーヒーを温めるのはもちろん、手作り用のポップコーンを弾かせて食べる者、塩辛を持参してアルミホイルの上で焼き始める者など、今思うと令和の時代ではあり得ない事を数々やりました。
5時間目が始まる時には、教室中、色々な匂いが充満していましたが先生たちはあえて何も言わずに見過ごしてくれていました。
こんな思い出があるのも恐らく私達世代が最後なのでしょうね。

たぬきつねこさん いいね! 0

ジンギスカンした時は流石に怒られました。

当時、夫の会社は暖房手当として石炭の現物支給でした。足り無くなる事はありませんでした。

フクちゃんさん いいね! 0

炭鉱は行ったことがないので、是非炭鉱の街に旅行などに行ってみたいです。

さなぎさん いいね! 0

大事だった。

まこっさんさん いいね! 0

私の小学校のストーブも石炭でした。
給食のパンを石炭ストーブで焼くと、抜群に美味しいんですよね~。
思い出します。

りんご娘さん いいね! 0

小学校に通ってるときは石炭ストーブを使ってました。

くろまめさん いいね! 0

私は炭鉱などは教科書で知るだけですが、とても危険で辛い仕事だったと聞きます。ただそういう仕事があったからこそ日本は発展したと思うので、感謝の気持ちを持っています。

つみきさん いいね! 0

たいへんだったとおもいます

せいじさん いいね! 0

北海道の歴史も深いものがあると思いました。

さふぃRX7さん いいね! 0

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炭鉱、石炭は馴染みが無く、ゲームの世界ではよく採取してました。

なかさん いいね! 0

微妙に記憶があるくらいです。幼稚園のストーブが石炭だったような?先生に近付いてはダメと言われていたような?
あと、記憶にあるのは、遠足で夕張炭鉱見学に行ったけど、あんまり覚えていない。子供の頃の記憶って残らないものですね。

ぽちさん いいね! 0

炭鉱は歴史の教科書のイメージ。実際に見た事は無く知識も乏しい。
いつかその場に訪れて見てみたい。

くまさん903ビタンさん いいね! 0

炭鉱に関係はありませんでしたが、小学校5年の時、6クラス全てに5人程度の転校生がありました。炭鉱の閉山に伴う移動です、時代を感じました。

Charlieさん いいね! 0

実家が北海道白老町。

実家を建てる前のばあちゃん家のお風呂が石炭風呂だったのをよく覚えてる。

ひまわりさん いいね! 0

石炭は貴重な日本のエネルギーでした。そしてこれからもその必要性は見直されると思います。
そして日本の発展を支えた炭鉱の仕事の厳しさは、これからも伝えて行かなくてはいけません。

netcatさん いいね! 0

三重県人です。特に炭鉱や石炭に関する思いはないのですが、北海道の厳しい冬の生活をイメージしようとすると、そこには必ずストーブから漏れる赤い炎があります。寒さ厳しい北海道で長年生活されている方々にとって、思い出の多くが、ストーブや雪に結びついておられるのでしょうね。その思い出が楽しいものであることを願います。

キャットさん いいね! 0

小学校、中学校の時の石炭ストーブですね。

モコパパさん いいね! 0

時代は変わるものなんだね。

daisukineriさん いいね! 0

北海道には10年位前に移転してきたので、炭鉱全盛の頃のことは分かりません。
ただ「幸せの黄色いハンカチ」?の映画は楽しく見た記憶があります。古き良き時代のおおらかさに触れたような、ほのぼのとした印象が残っています。

パイプ伯父さんさん いいね! 0

高校生の時、教室には石炭ストーブがあり、その日担当の生徒が石炭置き場まで重い石炭を2人で教室まで運ぶ役割がありました。とても重たかった記憶。懐かしいです。ゴウゴウと燃えるストーブの周りで女子生徒が雑談をする様子がとても絵になっていた気がします。

ねこママさん いいね! 0

父から思い出話で聞いたことあります

@さん いいね! 0

私の地元は製鉄が盛んな町でした。小学生の時にグラウンドに炉を作り、自分たちで取りに行った砂鉄を使用し、石炭を燃料に鉄を作る体験をしました。陽がだんだんと落ちていく中、空高く炎や火の粉が舞う様子を今でも鮮明に覚えています。

はっくるべりーさん いいね! 0

子供のころのお風呂が、石炭風呂だったので、火をつけるのが大変だった記憶があります。

はるひさん いいね! 0

私のひいおじいちゃんは幾春別の炭鉱夫だったと聞いています。
おじいちゃんの弟も同じです。
38歳の私にとって石炭はあまり身近ではありません。
でも私が今元気に生きているのは遡れば、ひいおじいちゃんが炭鉱で頑張って働いていたおかげなのだろうと感謝しています。
今度小学生の娘を夕張炭鉱へ見学に連れていきたいと思ってます。

ちえみさん いいね! 0

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就職したとき、同期に炭鉱出身の子がいたのですが、事故でお父様を亡くされ、そのことが思い出されます。

mokoさん いいね! 0

子供のころ炭鉱の町で育ったわけではないですが、いなかの中学校は、おっしゃる通り、日直が朝の火をつけることもしました。朝早く学校へ行くのがねんどうくさかったです。木造校舎で寒いので、ガンガン燃やさなくてはならなかったので、ストーブの真ん前の席は、石炭をくべる係で、暑くて授業どころでなかったです。

れおさん いいね! 0

私は今52歳ですが卒業した中学校は当時札幌市で2校しかない木造でした。当然ストーブもパネルヒーターなどではなくコークスストーブで、コークスをコークス倉庫から持ってきたり、ストーブの上の蒸発皿にパックの牛乳を入れて温めて飲んだり、ストーブ前の席はとても熱くてほっぺたが真っ赤になるなど、コークスストーブならではの思い出があります。石炭とはちょっと違いますけどね。

よつばさん いいね! 0

私が小中学校の頃、寒くなると教室にだるまストーブが設置されました。
「コークス」を入れて温めるストーブです。
毎日変わるコークス担当がコークス置き場からコークスをシャベルでバケツ一杯入れて教室に持ち込みくべて温めます。
寒くなるころは、ふと昔の情景が頭をよぎります。

デシさん いいね! 0

現在、軍艦島は「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、ユネスコの世界遺産への登録運動が行われています。2009年1月に世界遺産暫定リストに記載されました。炭鉱の想いを世界に発信するいいチャンスですね。

パパ0214さん いいね! 0

自分らの世代では、話には聞いてもなかなか馴染みが無い部分も大きいですね。でも、中国などで、炭鉱事故のニュースとかを見ていると一概に同じとは思わないけど、死と隣り合わせの危険な仕事・場所だったんだなと思いますね。小さい頃は、石炭を使ったこたつがあったんですけど、今は昔という感じで見かけることもなくなった感じですね。炭鉱跡もそうですし、蒸気機関車とかも見たことないので、一度見に行きたいですね。

haihmさん いいね! 0

昔、見た映画ロケットボーイズが、頑固な父親が炭鉱で働いていてロケットに夢を抱く少年との物語でした。とても感動しました。

キヨハルさん いいね! 0

小学生から中学生頃の学校での石炭ストーブが懐かしく思い出します、!

Kazuさん いいね! 0


 炭鉱とは何かよくわからないので実際に見てみたいと思いました。

カエルさん いいね! 0

私たちがまだ小学生だった頃、教室の暖房は石炭でした。石炭の燃える炎を見ていると何故か心まで暖かくなったことを思い出します。
その後の産業革命で日本自体が大きく変わり、私たちの生活も便利になりました。しかし教室のストーブで燃えていた石炭の炎をいつまでも懐かしく、そして未来に伝えていきたいと思います。

玉ねぎ探偵団さん いいね! 0

夕張に住んでいたお婆ちゃんが、我が家に遊びに来るときはいつも『石炭飴』をお土産に持ってきてくれ、食べていた思い出があります。
平たい缶を開けると真っ黒の飴と、金づちが入っていて、小さく割りながら食べるのが嬉しかったです♪

キューピー姫さん いいね! 0

教室のストーブ懐かしいですね。幼い頃を思い出します。

けぃたんさん いいね! 0

子供の頃のストーブは石炭ストーブでした。
冬の外出から帰ると家の中は外と同じぐらいの寒さで、急いでストーブに火を入れました。
ストーブ全体が真っ赤になるまで火をおこし、家の中があったまったら半袖姿に。
寒いけど暑い冬を過ごしていましたね。

MESSIさん いいね! 0

叔父が炭鉱夫でした。彼のおじいさまもそうでした。
小学生の時はだるまストーブでした。手袋もやっけも焦がした思い出があります。
臭いんですよね笑

今は石炭と関わることのない人が増えていますね。
石炭について今度同級生や親と話してみようと思います。
あの黒く、キラキラ光る石炭を、もう一度手のひらに乗せて見たくなりました。

ななさん いいね! 0

会社で働いていたパートのおばさんの実家がほっかいで、そのお父さんが炭鉱で働いていたと話をしてくれたことがありました。
全盛期の時代はたくさんの人達が出稼ぎに来ていたそうです。そのような裏で大変な努力があり、その歴史を踏まえての日本遺産制定だとおもいます。このように制定され、日本のみならず海外の方々にももっと歴史を知ってもらえる良い機会だと思います。後世に語り継ぎたい歴史です。

さん いいね! 0

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ストーブの燃料として石炭を使っていた記憶がある。しかしいつの間にか石油に取って代わった。やはり石油は取り扱いがずっと便利だったからと思う。

ヤママヤさん いいね! 0

亡き祖父母は岩見沢にいて、祖父は国鉄の仕事をしたこともあったらしい。昭和を生きた2人なら、きっと炭鉱の記憶も色濃く持っていたはず。存命のうちに話を聞けなかったことが残念です。

ばななえさん いいね! 0

平成生まれの私は、小学校の時は電気ストーブで石炭にあまり触れておらず、現在まで実際見たこともありません。今度、新婚旅行に北海道に行く際に炭鉄港も訪れる予定です。知らないからこそ、学び、新しいものを生み出して行きたいと思います。

けんちゃんさん いいね! 0

残念ながら、直接炭鉱を見た事はありませんが、高校生だった約40年前、汽車通学でガッタンガッタン、ゴーと蒸気をあげて走り出し、臭いので窓は開けられず、座席によって景色が真っ白で見えなかったものの、楽しい毎日の想い出だったと記憶しています。懐かしい情景を思い出しました(笑)

run・mamaさん いいね! 0

中学校、高校は石炭のダルマストーブでした。
ストーブの上で牛乳瓶をあたためりしてました。
ストーブの近くは熱かったなー。

きまぐれパンダさん いいね! 0

北海道は、新婚旅行に行った場所
日本遺産制定は、素晴らしいの一言

ふじゃれさん いいね! 0

昔、祖母の家に行くと炭鉱を使ったストーブがありました。
子供の頃はそれが珍しくて、でも暖かいし、炭鉱の独特な匂いが好きでした。
今は亡き祖母とその家ですが、あの頃を思い出して懐かしくなりました。
今の子供たちはきっとそんなストーブなど知らないでしょう。
少しでも触れ合うことがあれば良いなと思います。

かなこさん いいね! 0

祖父母の家が炭鉱で働いていた人の
長屋を一軒屋に改装した家に住んでました。冬は石炭のストーブでした。

はるごんさん いいね! 0

26年前に大阪から北海道に移住してきたので、炭鉱の思い出は有りませんが、以前はどの会社でも石炭手当が有ったと聞いて驚いたことを思い出します。

まあくんさん いいね! 0

主人は小学生の頃美唄の炭住に、住んでいたそうです。昨年のお盆休みに半世紀振りに故郷を訪ねました。幼い頃の記憶だけが頼りでしたが、今は跡形もなく木々が生い茂り主人の寂しそうな表情が心に残りました。アルテピッツアの懐古展に立ち寄り昔の地図に見入っている姿……ちょっとセツナイ忘れられない1日になりました。

じゅんさん いいね! 0

高校が石炭ストーブでした。
日直が石炭くみをしなくてはなくて友達の時なんかも手伝ってましたね。
懐かしい

モエマムさん いいね! 0

室蘭出身です。昔は石炭積み出し港でした。なつかしい。

ヤロメロさん いいね! 0

正直、炭鉱のイメージは石炭歴史村で石炭飴を食べた記憶しかありません。おばあちゃんの家が石炭ストーブだった気もしますが、たまに石炭ストーブを見るとどこか懐かしい気もします。

ハルさん いいね! 0

私が小学生の頃も教室や図書館に石炭のストーブがありました。図書館のストーブの前でいつも本を読んでいました。今はあまり見かけませんね。懐かしいです。

うさぴょんさん いいね! 0

昭和後期、私が子どもの頃、叔父(母の姉の夫)が赤平の炭鉱で働いていた。叔父と叔母には子どもがおらず、夏休み等、兄弟でよく赤平に遊びに行き、私達を可愛がってくれた。その頃赤平は人が沢山いて炭鉱住宅が沢山あった。叔父・叔母も炭住に居住。近くに大きな風呂場があり叔父とよく行った。そして、叔母が美味しい料理を沢山作ってくれてとても楽しい思い出として今も心に残っている。叔父は約20年前、叔母は今年他界した。

northcarrotさん いいね! 0

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だるまストーブねえ、懐かしい。でも 石炭取りに行った記憶はあるけど 掃除は他の人がしていたので。。。。

パステルさん いいね! 0

石炭と聞くと、中学生の時の研修旅行で行った夕張を思い出します。石炭の歴史村で、坑道のようなところを歩いて、とても涼しく、イメージと違って不思議な感じがしたのを思い出します。

りょうさん いいね! 0

私の年齢では石炭などは馴染みがありません。
特に、大阪の都会なのでガス、電気が主です。
なのでこういう機会でしか歴史、風土に興味が持てません。
エネルギー不足などが謳われますが、たまには過去の大事なことに目を向ける事も大切なのかと思いました。

れとるとさん いいね! 0

炭鉱には関わりはありませんでしたが、小学校の頃、教室に石炭ストーブがあって、上にのっている桶の水を絶やさないように入れていたのを思い出しました。

まーさん いいね! 0

北海道の歴史は炭鉱て人びとを呼び発展していった。衰退した現代でもぜひにルーツ的に知るべきである。

はっしーさん いいね! 0

幼い頃暮らしていた場所は、九州の小さな町でした。駅のすぐそばで、近くに大手運送業者の事務所が有り、国鉄の貨物で運んできた石炭を一時的に保管していました。保管といっても地面にそのまま山積みするのです。雨が降れば真っ黒な水が流れ出していました。近所の子供と一緒に石炭の山に登って遊んでいました。現代の世の中では考えられないような事ですが、今となっては懐かしい思い出のひとこまになっています。

オレンジロードさん いいね! 0

石炭は火起こしには欠かせませんよね。
私の家は、小さい頃から大人数で知り合いの川を貸し切ってBBQをするのが恒例でしたので、小さな頃から、炭の匂いと誰かが演奏する音楽の音を聞きながら、焚き火を囲んでチェアでうたた寝することがよくありました。
夜の森はとても美しくて、今でも忘れることができない大変幻想的な情景です。
炭の匂いは、当時の素晴らしい記憶を瞬時に蘇らせてくれるので大好きです。

もちもちさん いいね! 0

行ってみたい

satoさん いいね! 0

今は環境問題や温暖化の対策で悪者扱いの石炭ですが、一時期は日本を活気づけていたのも事実です。もっと対策を考えて効果的に使用できないのかと考えてしまいます。

よしぼうさん いいね! 0

最初の就職先は社名が・・石炭鉱業。今考えると自慢できる社名だったかな・・・。

サン太とアニさん いいね! 0

子供の頃は、石炭ストーブでした。 当時、札幌は雪玉が造りにくいほど寒かった!

ユキちゃんさん いいね! 0

参考になりました。

はなちゃん3さん いいね! 0

父親の転勤で引っ越した先は、炭鉱が閉山し、さびれ始めた街でした。中学校の学校祭で、術場や外来がそのまま残された病院で肝だめしをするという、今では考えられないイベントがありました。

チョッパーさん いいね! 0

石炭のことはあまり詳しくはわからないですが、夕張の石炭の歴史村に子供の頃何度か遊びに行った思い出があります。
おばあちゃん家も今もまだ薪ストーブを使っていて世代ではなくても昔ながらのものというのはどこか落ち着かせてくれます。
石炭の歴史ももっと知る機会があれば学びたいです。

タヌさん いいね! 0

日本遺産に制定された北海道「炭鉄港」に機会があれば是非行ってみたいと思います。

レイチェルさん いいね! 0

20ページ

30年前に亡くなった祖父が炭鉱で働いていました。
直接聞いたわけではなく祖母から聞いたのですが。
炭鉱というと祖父の事を思い出します。
祖父ともっと色々話せたら良かったな~

ふくタローさん いいね! 0

炭鉱で働いていた叔父の写真はどれも笑顔ばかりでした。
顔も服も汚れていたけど幸せな雰囲気が漂うものが多かったです。

おていちゃんさん いいね! 0

炭鉱といえば重労働、危険というイメージがあります。石炭といえばSL。そのくらいの知識しかありません。

やっちゃんさん いいね! 0

色々な時代があって今があるのだなぁと思いました.

あさひこさん いいね! 0

小学3年生頃までは学校のストーブは石炭だった。その頃はまだ蒸気機関車も走っていたが、日常生活から石炭が見えなくなって来た頃だったと思い浮かべた。

Fe04さん いいね! 0

どうしよう…特に思いが…あっ、九州も炭鉱や製鉄所などがあり、北九州の「八幡製鉄所」には小学生の頃に工場見学へ行きました!!
今は、その製鉄所はありませんが…懐かしいです。(製鉄所の遊休地が「スペースワールド」と言うテーマパークになりましたが、2018年1月1日閉園)

ぴのこだっくさん いいね! 0

いまは閉鎖されている所が多いが仕事が大変だったイメージ。

ありがとうありさん いいね! 0

炭鉱とは無縁の人生です。
でも、すごくノスタルジーを感じます。

ひーたんゆうゆうさん いいね! 0

私の居住地、福岡県大牟田市は昔、「三池炭鉱」で栄えた炭鉱町でした。
炭鉱爆発事故でたくさんの炭鉱さんが亡くなったり、炭鉱に関わる病人も多く、その関連病院もあります。
北海道に続き閉山後は、さらに街の衰退化を進め、かつてのにぎやかな面影はありません。
そのかわり、現在平穏安全・安心な街へとなったしだい。
災害もわりに少なく、とても住みやすい街です。

かましんさん いいね! 0

小・中学の教室のストーブは、完全にだるまストーブでした。席替えで廊下側のときは寒く、ストーブの周辺は熱帯で大変だったのを思い出します。

のるんさん いいね! 0

小学校のときの教室の石炭ストーブでパンを焼いて食べた思い出があります

みちさん いいね! 0

炭鉱のイメージはあまりないです

あきあきさん いいね! 0

炭鉱は見覚えがあるようなないような気がしていますが。。。

街はおそらく結構緊迫していたモードだったのではないかと思います。

マスタクさん いいね! 0

私の子供のころは、練炭ゃストーブ等で石炭は毎日利用している身近な燃料でした。いつの間にか石油や天然ガスに変わって石炭産業は忘れられてきましたが、日本遺産に制定されいつまでも日本の発展の歴史を支えた石炭産業として後世に伝えてほしいと思います。

すみちゃん元気さん いいね! 0

ずいぶん久しぶりに炭鉱、石灰と言う単語を目にしました。そういえば小、中学校の時には体育館に大きなストーブが置かれ、何とも言えない独特な匂いが立ち込めていたのを思い出しました。あれから随分と時間が経ち電気製品が主流になってストーブを目にすることもなくなりました。長く寒い冬を越すために北海道ではストーブが今も欠かせないのでしょうか。

このあーさん いいね! 0

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