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>HOME >特集一覧 >VOL182「炭鉱の記憶、忘れない。」
特集「炭鉱の記憶、忘れない。」の表紙の写真です

「炭鉄港」、空知の物語
昔、炭鉱があった。そして今。

ガイダンス施設に展示されている本物の石炭
ガイダンス施設に展示されている本物の石炭

 北海道の産業の歴史を語るとき、炭鉱は外せない。戦後日本のエネルギー政策を支え、たくさんの人が働いた。その多くが集中していたのが空知地方だ。

 1961年には、空知地域だけで最大112の炭鉱があった。1960年代には石狩炭田の産炭量は九州の筑豊を越え、日本一の生産量を誇った。その後、国内のエネルギーは石油中心に転換され、炭鉱は次々に閉山。1995年、歌志内にあった空知炭鉱の閉山で、この地区の炭鉱は歴史の幕を閉じた。

 かつて炭鉱で栄えた地域は、人口減、高齢化といった問題に直面している。そんな中で、北海道を支えた3つの産業分野が「炭鉄港(たんてつこう)」の名称で、2019年5月、文化庁の認定する「日本遺産」になった。「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリー」が重視され、炭鉱関連で空知地区を中心に10市町、鉄の室蘭、港の小樽が申請者だ。

 日本遺産の認定に向け、中心となって活動したのがNPO法人炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団だ。その理事長で札幌国際大学観光学部教授の吉岡宏高さんに話を聞くため、空知を訪ねた。

産業の根っこは炭鉱だった

 吉岡さんの名刺には「幌内炭鉱出身」とある。三笠市にあった北海道炭礦汽船(北炭)の炭鉱で、良質の石炭が採れた。吉岡さんの父は炭鉱の労務課で働いていた。炭鉱全盛時、約5万7千人だった人口は今は約8千人。「まちが壊れた、壊滅したと言っていい」と吉岡さんは言うが、「明るい炭鉱」という著書もある吉岡さんの、炭鉱に対峙する姿勢はいたってポジティブだ。

 「炭鉱ができたおかげでまちができ、鉄道ができた。すべて根っこは炭鉱。総合的な産業で一つの社会だった。暗い面もあるが、その中で得た教訓を学ぶことで現在のいろいろな問題を乗り越えていく力になる」と強調する。

ロードヘッダー
旧自走枠整備工場には坑内で使われていたさまざまな重機が展示されている。これは坑道を掘り進む「ロードヘッダー」。先端に巨大ドリルがついている。

立坑の建物
立坑の建物。上部の輪は「ヘッドシーブ」という、エレベーターを動かすための巨大な滑車だ。

この記憶をつなぎたい

 この事業団の前身となる市民活動が開始されたのは1998年。この地区の最後の炭鉱が閉じて3年後のことだ。

 訪れた日、「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」で、吉岡さんは団体の見学者を案内していた。ここは、かつて住友赤平炭鉱があったところで、地下600メートルまで垂直に掘られた立坑があったところが市の見学施設として2018年7月にオープンした。

 当時の炭鉱で使われた道具などが展示されたエリア、アクリル板の向こうに、畳10枚分くらいはありそうな、緻密な坑道の実測図が収められている。

 「坑道の総延長は約200キロ。それを詳細に記録したのがこれ。こういうのが残っているのはここだけです。平面の地図に見えますが、地下は立体。坑道は上にも下にも走ってるんです」と、吉岡さんの説明が熱を帯びる。

 施設の隣に、5階建てのビルくらいの古ぼけた建物がある。いやおうなく目につくのは、建物の天井部分に4つ見える大きな滑車だ。ここは住友赤平炭鉱の立坑の跡。滑車は立坑を降りるエレベーターのワイヤーを吊していた巻き上げ機の一部だ。計画では地下1000メートルまで掘られる予定だったが、実際には600メートルまで運用して閉山となった。東京スカイツリーの高さが約630メートルだから、その高さがほぼすっぽり地中に入っていることになる。炭鉱といえば、トロッコが坑口から地中に下って行くイメージが多いが、石炭を掘るにつれて現場が深くなったため、効率のよい立坑が造られ効率化が図られた。

 建物を案内してくれたのは、ガイドの三上秀雄さん。実際に立坑を行き来して作業していたこともある元炭鉱マンだ。69歳だが、「元炭鉱マンとしては最年少の部類です」という。

操業時の写真
操業時の写真がところどころに展示されている。実際に使われていたトロッコも置かれていたが、座席は驚くほど狭い。

理事長の吉岡宏高さん。
ガイダンス施設で入場者に説明する「炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団」理事長の吉岡宏高さん。

炭鉱は「既におきた未来」

 空知の石炭が、鉄を作る溶鉱炉の原料として室蘭で使われ、鉄路で運ばれて小樽の港から出荷された。こうして炭鉄港の物語がつながる。すべては炭鉱から始まった。

 「炭鉱は既におきた未来です」と吉岡さんは言う。

 「人口減、高齢化、これから日 本におきるであろうことをもう経験した。企業も見捨てていった地域だけれど、まだ残る力強さを糧に、いろいろな人とつながりを持っていきたい。これから先へ進むための教訓があるはず」、と語ってくれた。

ガイダンス施設に展示されている本物の石炭
山﨑ワイナリーに実るピノ・ノワール。斜面一帯に見渡す限りブドウが植えられている。地中奥深くには今も大量の石炭が眠っているはずだ。

空知の新しい風景

 かつて、無数の坑道が掘られた空知の丘。今、新しい風景としてその丘を埋めているのはブドウの樹だ。斜面一面のブドウ畑を見下ろす、三笠市の山﨑ワイナリーを訪ねた。山﨑家はこの地ででかつて小麦、トウモロコシ、米を作っていた農家だった。父の山﨑和幸さんが新しい試みとしてファームインを始めたのが1990年代の半ば。「研修に行ったニュージーランドの農村が地域と交流しているのを見てあこがれたんだと思います」と、次男の太地さんは語る。太地さんは現在、ワイナリーの栽培を担当する。

 当時、ファームインなどまだ珍しかった時代だ。ふつうの農家として、ほとんど同業者としか付き合いがなかったが、ファームインで新しい交流が生まれ今まで会ったことがない種類の人と会うようになった。ワイナリーのアイデアがひらめいたのも、そんな出会いがあったからだ。斜面を見た他県のワイナリーオーナーから言われた「ブドウ栽培にぴったりだ」の一言が転機となった。

山﨑ワイナリーの山﨑太地さん
山﨑ワイナリーの山﨑太地さん

ワインラベル
ワインラベルの「花びら」はワイナリーをスタートした家族5人の指紋でデザインした。「三笠市達布の農村でワイン文化という新しい花を咲かせたい」という願いが込められている。

ブドウ栽培の適地

 ブドウを植え始めたのが1998年。長男は東京の大学で醸造を学んできた。4年かかって資金を調達、建物と醸造所を作り、酒の製造免許を農家としては北海道で初めて取得した。有限会社としてワイナリーをスタートしたのが2002年だった。

 初めは、ワイン用のブドウの品種「ピノ・ノワール」を植えた。北海道では成功例がなかったが、完成したワインに初めてその名前を入れることができた。2013年からは他の作物の生産はやめ、ブドウに集中した。現在造っているブドウは10品種となり、ワイナリーは今年が11回目の醸造だ。

 空知の地は褶曲(しゅうきょく)が激しい。だから地層が地面と水平ではなく、地殻変動で押されて垂直に近いところが多い。石炭層も平らではなく、急傾斜の炭層は炭鉱マンたちに難しい作業を強いたが、その特徴がブドウ栽培に面白い結果をもたらした。

 山﨑ワイナリーの栽培地にはほぼ垂直に立った7つの地層が確認されており、そこに植えられるブドウはそれぞれの土で味が違うという。エリア毎に樽を分けて発酵させ、ボトリングのときにブレンドすることで奥深い味となり、一つの土質に依存しない安定生産にもつながった。

 太地さんは大学で教員免許も取得したが、卒業後はすぐに家業の農業に就く道を選んだ。家業を見続けたなかで、「農家の自立」を果たし、農村に寄与する仕事がしたい気持ちが募っていた。

 ワイナリーの丘からは石狩平野の北部が見下ろせる。

 「ほら、あそこに防風林が見えるでしょ」

 太地さんが指さす先に、高い木が一直線に並んでいるのがよく見える。

 「防風林を植えた人はその恩恵に預かれない。だけど今こうしてみんなの役に立っているんです。炭鉱もブドウ畑もそれと同じ。この地の風景として定着してくれればいいと思ってます」

 今、地元の小学生のワイナリー見学を受け入れている。山﨑ワイナリーが端緒となり、空知にはワイナリーが増えてきた。炭鉱を知らない子どもたちが成長し、この地を思い出すとき、頭に浮かぶのは斜面を覆う一面のブドウ畑の風景かもしれない。
(文・写真/吉村卓也)


●赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設

一般見学(無料)9:30〜17:00、炭鉱遺産ガイド付見学(有料)
催行時間(10:00、13:30の2回、ガイダンス施設の開館日に限る)
休館日:月、火(月火が祝日の場合は開館して翌平日休み) 赤平市字赤平485番地 TEL:0125-74-6505

●YAMAZAKI WINERY

有限会社 山﨑ワイナリー
ショップ営業日:土日・祝日のみ
営業時間:10:00〜17:00(10月)、10:00〜16:00(11〜3月)、10:00〜18:00(それ以外)
三笠市達布791-22 TEL:01267-4-4410

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『昔、炭鉱があった。』

ここからは特集に関連して会員の皆さんからよせられたコメントをご紹介します。
面白かったコメント、私も同じ!と思ったコメントは、ぜひいいね!を押してください。

1ページ

ずいぶん久しぶりに炭鉱、石灰と言う単語を目にしました。そういえば小、中学校の時には体育館に大きなストーブが置かれ、何とも言えない独特な匂いが立ち込めていたのを思い出しました。あれから随分と時間が経ち電気製品が主流になってストーブを目にすることもなくなりました。長く寒い冬を越すために北海道ではストーブが今も欠かせないのでしょうか。

このあーさん

私の子供のころは、練炭ゃストーブ等で石炭は毎日利用している身近な燃料でした。いつの間にか石油や天然ガスに変わって石炭産業は忘れられてきましたが、日本遺産に制定されいつまでも日本の発展の歴史を支えた石炭産業として後世に伝えてほしいと思います。

すみちゃん元気さん

炭鉱は見覚えがあるようなないような気がしていますが。。。

街はおそらく結構緊迫していたモードだったのではないかと思います。

マスタクさん

炭鉱のイメージはあまりないです

あきあきさん

小学校のときの教室の石炭ストーブでパンを焼いて食べた思い出があります

みちさん

小・中学の教室のストーブは、完全にだるまストーブでした。席替えで廊下側のときは寒く、ストーブの周辺は熱帯で大変だったのを思い出します。

のるんさん

私の居住地、福岡県大牟田市は昔、「三池炭鉱」で栄えた炭鉱町でした。
炭鉱爆発事故でたくさんの炭鉱さんが亡くなったり、炭鉱に関わる病人も多く、その関連病院もあります。
北海道に続き閉山後は、さらに街の衰退化を進め、かつてのにぎやかな面影はありません。
そのかわり、現在平穏安全・安心な街へとなったしだい。
災害もわりに少なく、とても住みやすい街です。

かましんさん

炭鉱とは無縁の人生です。
でも、すごくノスタルジーを感じます。

ひーたんゆうゆうさん

いまは閉鎖されている所が多いが仕事が大変だったイメージ。

ありがとうありさん

どうしよう…特に思いが…あっ、九州も炭鉱や製鉄所などがあり、北九州の「八幡製鉄所」には小学生の頃に工場見学へ行きました!!
今は、その製鉄所はありませんが…懐かしいです。(製鉄所の遊休地が「スペースワールド」と言うテーマパークになりましたが、2018年1月1日閉園)

ぴのこだっくさん

小学3年生頃までは学校のストーブは石炭だった。その頃はまだ蒸気機関車も走っていたが、日常生活から石炭が見えなくなって来た頃だったと思い浮かべた。

Fe04さん

色々な時代があって今があるのだなぁと思いました.

あさひこさん

炭鉱といえば重労働、危険というイメージがあります。石炭といえばSL。そのくらいの知識しかありません。

やっちゃんさん

炭鉱で働いていた叔父の写真はどれも笑顔ばかりでした。
顔も服も汚れていたけど幸せな雰囲気が漂うものが多かったです。

おていちゃんさん

30年前に亡くなった祖父が炭鉱で働いていました。
直接聞いたわけではなく祖母から聞いたのですが。
炭鉱というと祖父の事を思い出します。
祖父ともっと色々話せたら良かったな~

ふくタローさん

2ページ

日本遺産に制定された北海道「炭鉄港」に機会があれば是非行ってみたいと思います。

レイチェルさん

石炭のことはあまり詳しくはわからないですが、夕張の石炭の歴史村に子供の頃何度か遊びに行った思い出があります。
おばあちゃん家も今もまだ薪ストーブを使っていて世代ではなくても昔ながらのものというのはどこか落ち着かせてくれます。
石炭の歴史ももっと知る機会があれば学びたいです。

タヌさん

父親の転勤で引っ越した先は、炭鉱が閉山し、さびれ始めた街でした。中学校の学校祭で、術場や外来がそのまま残された病院で肝だめしをするという、今では考えられないイベントがありました。

チョッパーさん

参考になりました。

はなちゃん3さん

子供の頃は、石炭ストーブでした。 当時、札幌は雪玉が造りにくいほど寒かった!

ユキちゃんさん

最初の就職先は社名が・・石炭鉱業。今考えると自慢できる社名だったかな・・・。

サン太とアニさん

今は環境問題や温暖化の対策で悪者扱いの石炭ですが、一時期は日本を活気づけていたのも事実です。もっと対策を考えて効果的に使用できないのかと考えてしまいます。

よしぼうさん

行ってみたい

satoさん

石炭は火起こしには欠かせませんよね。
私の家は、小さい頃から大人数で知り合いの川を貸し切ってBBQをするのが恒例でしたので、小さな頃から、炭の匂いと誰かが演奏する音楽の音を聞きながら、焚き火を囲んでチェアでうたた寝することがよくありました。
夜の森はとても美しくて、今でも忘れることができない大変幻想的な情景です。
炭の匂いは、当時の素晴らしい記憶を瞬時に蘇らせてくれるので大好きです。

もちもちさん

幼い頃暮らしていた場所は、九州の小さな町でした。駅のすぐそばで、近くに大手運送業者の事務所が有り、国鉄の貨物で運んできた石炭を一時的に保管していました。保管といっても地面にそのまま山積みするのです。雨が降れば真っ黒な水が流れ出していました。近所の子供と一緒に石炭の山に登って遊んでいました。現代の世の中では考えられないような事ですが、今となっては懐かしい思い出のひとこまになっています。

オレンジロードさん

北海道の歴史は炭鉱て人びとを呼び発展していった。衰退した現代でもぜひにルーツ的に知るべきである。

はっしーさん

炭鉱には関わりはありませんでしたが、小学校の頃、教室に石炭ストーブがあって、上にのっている桶の水を絶やさないように入れていたのを思い出しました。

まーさん

私の年齢では石炭などは馴染みがありません。
特に、大阪の都会なのでガス、電気が主です。
なのでこういう機会でしか歴史、風土に興味が持てません。
エネルギー不足などが謳われますが、たまには過去の大事なことに目を向ける事も大切なのかと思いました。

れとるとさん

石炭と聞くと、中学生の時の研修旅行で行った夕張を思い出します。石炭の歴史村で、坑道のようなところを歩いて、とても涼しく、イメージと違って不思議な感じがしたのを思い出します。

りょうさん

だるまストーブねえ、懐かしい。でも 石炭取りに行った記憶はあるけど 掃除は他の人がしていたので。。。。

パステルさん

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