「塩狩峠」は三浦文学の中でも人気が高い。明治42年2月28日にあった事故を題材にした作品。列車の連結器が外れ、最後尾車両が逆走。脱線の危機を、乗り合わせた青年、長野政雄が自分の身を線路に投げだして列車を停止して止めた実話を基にしている。現場近くのJR塩狩駅は無人駅だが、近くには「長野政雄氏殉職の碑」が建つ。小説内では長野は「永野信夫」で、結納のため札幌に向かう途中で日中という設定。実際の事故は夜だった。今も2月28日には塩狩のユースホステルや和寒町によるキャンドルナイトが行われている。
作家・三浦綾子は北海道、旭川出身の文学者だ。北海道のみならず、日本全国にファンが多い。本媒体で北海道に関する文芸作品を紹介する「地域を知る一冊」のコーナーでも三浦綾子は3冊が取り上げられていてトップ。「北海道の文学、作家」というテーマで寄せられた、今号の「投稿塾」(4ページ)に寄せられた読者のみなさんの声からも、三浦綾子が圧倒的な人気なのがわかる。
代表作として「塩狩峠」「氷点」「泥流地帯」「銃口」などがある。何がそれほど人をひきつけるのか。明らかに他の作家とは違う「何か」があるように思える。それは何なのか。生誕百年の今、三浦文学の魅力を伝え続けるお二人に話を聞いた。
旭川市に住む森下辰衛さんは「三浦綾子読書会」の代表で、旭川の三浦綾子記念文学館の特別研究員も勤める。全国に200ほどあるという三浦綾子読書会に呼ばれ、出かけて行き話をする。これが本業である。読書会は全国で自然発生的に生まれて、それぞれの場所で思い思いの運営がされている。会報は発行されているが、誰でも始められる会だ。
森下さんは岡山県の出身。1992年から福岡女学院大学に職を得て、志賀直哉や太宰治を研究し日本文学を教えていた。三浦綾子にこれほどまで深く関わる事になったのは偶然だった。当時教えていた学生たちから「先生、三浦綾子を教えてください」と頼まれたのがきっかけだ。このリクエストがなかったら、今ごろは文学を教える大学教授をやっていたかもしれない。
「三浦綾子を読んだ後に、学生が劇的に変わるんです。生きていくのもつらいと言っていた学生が希望を持つようになる。こんな作家はそういるもんではありません」と森下さんは当時の体験を思い出す。読者の人生観を大きく変える三浦文学。いつか研究の対象は三浦綾子に移っていった。ゼミの研修旅行で学生を連れて旭川を訪ねたこともあった。「すでにパーキンソン病を患っていた綾子さんが、震える手で著書にサインして学生全員にプレゼントしてくれたのが忘れられません」と当時を振り返る。
三浦綾子没後、2001年春には夫の光世さんに九州に来てもらい、講演会を開いた。これがその後につながる読書会のきっかけとなった。
その後、勤めていた大学から1年の研究休暇を得て、選んだ地が旭川。三浦綾子をもっと研究してみようという思いが高まっていた。1年後には大学に戻り、教授に昇進するという将来が準備されていた。
が、そうはならなかった。森下さん自らがそのレールから外れたのだ。
「読めば読むほど、ただ研究をしていればよいという人ではないということがわかってきました」と森下さんは言う。大学には戻らない決心をし、研究者ではなく三浦文学の魅力を人に伝える活動をしようと決める。
まさに森下さん自身が三浦綾子の作品によって人生を変えられた人となった。
講演会では当時の苦しかった様子をユーモアを加えて語る事もある。結婚して子どももいたのでやりくりは相当大変採ってだったようだ。食費節約のため、はえているツクシを採って卵とじにして食べるようなこともあったという。北海道ではあまりツクシを食べる習慣がないため、子どもからは「お願いだから学校の近くでツクシを採るのはやめてね」と言われたそうだ。コロナの前は、全国の読書会に呼ばれ、年間300回の講演をこなし、1年のうち200日くらいは家にいない生活だった。
「自然災害や病気、戦争、人生に苦難は必ずある。わかりやすい筋立ての中で、その苦難の中からどうやって希望を見出すか。このテーマが普遍的な力を持っているのだと思います」。
だからこそ、「綾子さんの作品について、語り合いたい人がいっぱいいる。そうさせようとする力がある、集いたくなる力がある。そういう力に引き出されてしまって、三浦文学が好きな人たちに私が引きずり出されたとうことですかね」と森下さん。
札幌で開かれた森下さんの講演会に参加してみた。十数名の聴衆。三浦綾子の熱心な読者もいるし、そうでない人もいる。この日は初めての会場だったこともあり、三浦文学のエッセンスを約90分に渡って解説。その後のトークでは、参加者からの質問が続いた。「なぜこんなつらい終わり方の作品が多いのか」という質問に、苦難の中での救いの可能性を語る。このあたりは、森下さん自身のホームページや文学館のYouTube配信などでじっくりと味わっていただきたい。
三浦綾子の文学に通底するテーマはキリスト教、聖書の教えだ。簡単に三浦綾子の人生を振り返ってみる。
1922(大正11)年4月25日、旭川生まれ。尋常小学校の先生となり、当時の軍国教育にどっぷりつかっていた。終戦後、これまで使っていた教科書はGHQの指導により「不適切」とされ、生徒自らに教科書に墨を塗らせる行為は彼女の心に大きな傷を残した。教師を続ける資格はないと、彼女は職を辞す。当時の名前は堀田綾子だ。自暴自棄となり、当時は不治の病と思われていた肺結核やカリエスを発病。長く闘病生活を続ける。心がすさんでいる時、見舞いに来た幼なじみの前川正と出会う。前川はクリスチャンだったが、綾子は彼に「クリスチャンって大きらいなのよ。何よ君子ぶって……」(『道ありき』三浦綾子)と言い放つ。前川は綾子が何かを求めていることを感じ取り、聖書を読む事を勧める。反発していた綾子だったが、いつしか前川の誠実な人柄に打たれ、結局自身もクリスチャンになるに至る。だが、同じく肺病を病んでいた前川は手術に失敗し、死亡する。自身も病床にあった綾子は絶望の底に突き落とされる。1年後、文芸誌の投稿を通じて綾子を知った三浦光世が見舞いに訪れる。これが運命の出会いとなった。光世もクリスチャンだった。光世は求婚するが、「私は前川さんを忘れることができない」という綾子に光世は、前川さんのことを忘れないことが大切。私たちは前川さんによって結ばれたのですから、と言う。光世はその後ずっと前川正の写真をポケットにしのばせていたという。
1959年、堀田綾子は三浦光世と結婚し、三浦綾子となる。旭川で雑貨店を経営しながら執筆をし、1964年に朝日新聞の懸賞小説に応募した「氷点」が入選、作家としてデビューする。「氷点」は映画やテレビドラマにもなり、ブームとなった。その後、次々と発表される作品はどれも大きな人気を博したのは周知の通りだ。
三浦綾子が生まれ暮らした旭川に、三浦綾子記念文学館が建つ。「氷点」の舞台となった国有林、外国樹種見本林の縁にある。天を突くように垂直に立つ見上げるような針葉樹のストローブマツが、冬でも葉をつけている。
1998年、三浦綾子の亡くなる1年前に開館した。公益財団法人三浦綾子記念文化財団が運営し、現在事務局長を勤めるのが難波真実さんだ。士別の教会で牧師をしていたが、乞われて2013年から兼務で文学館の仕事をするようになり、2016年からフルタイムで働くことになった。
開館当時は年間6万人だった入場者もだんだん減って、コロナ前は1万5千〜1万7千人くらいになった。さらに、コロナ禍では休館を余儀なくされることもあったが、期せずして入館料だけに頼らない文学館の運営方法に思いを至らせることができたという。館は今年で24年目を迎える。
「文学館の役割とはなんだろう」とずっと考えてきたという難波さん。
「文学という題材を扱っている以上、モノを見せるだけという施設ではない。読んでない人には読んでもらい、読んだ人の世界の中、三浦綾子の言葉が自分のテキストとなってくれればいいと思っています」と語る。
難波さんが初めて読んだのが「塩狩峠」。次に読んだ「ひつじが丘」が「自分の運命を決めた」。「愛とは許すことだ」という一節は、自分の心の中に深く刻み込まれたという。
「彼女の小説はハッピーエンドのものはなくて、ほとんどがバッドエンドのものです。でもなんでこんなに人気があるのか。それは人間の生き死にを扱っていて、そこからにじみ出てくるもの、生きる事の意味、そのかけらを拾えたりするからだと思います」と、三浦作品の魅力を語る。
4月25日に生誕百年となる三浦綾子。文学館でも今年はさまざまな企画が考えられている。人間の罪と許し、愛を扱った彼女の作品は、その根源的な深いテーマ故に多くの人の心を捉えるのだろう。今後も世代を超えて読み継がれてゆくにちがいない。
(文・写真:吉村卓也)
※三浦綾子読書会や森下さんについては、森下辰衛オフィシャルサイト『向こう岸へ渡ろう』、「三浦綾子読書会」で検索を。
三浦綾子記念文学館 旭川市神楽7条8丁目2-15 tel. 0166-69-2626 開館スケジュール等はお問い合わせください。
ここからは特集に関連して会員の皆さんからよせられたコメントをご紹介します。
9ページ中1ページ目
9ページ中1ページ目(265コメント中の30コメント)