北海道の初夏を告げる野菜といえば、アスパラは欠かせないだろう。みずみずしい緑の茎、甘みとほのかな苦味。さっと茹でて、軽く炒めて。鮮度が落ちるのが早い作物だから、採れたてのアスパラを食べられるのは北海道民の特権ともいえる。
北海道を代表する農作物といえるアスパラが本格的に栽培されるようになったのはそれほど古い話ではない。話は昭和初期に遡る。一人の熱心な研究者がいた。その名を下田喜久三という。地元では親しみを込めて「下田博士」と呼ばれる。1895(明治28)年岩内に生まれた。東京薬科大の前身、東京薬学校を卒業し、家業の肥料店を手伝うかたわら農家に化学肥料の使い方を指導していた。1913(大正2)年の大規模な冷害を体験した下田は、北海道の風土にあった冷害に強い作物を作る必要を痛感した。そこで目をつけたのがアスパラだった。
アスパラ(アスパラガス)はもともとヨーロッパ原産といわれる。伝来は江戸時代との説があるが、どうやって北海道に入ってきたのかは定かではないようだ。和名ではオランダキジカクシ、ホタルグサ、西洋ウドなどがあり、分類上はキジカクシ目キジカクシ科だ。ユリ科と言われることもあるが、新しい分類ではキジカクシ科となるようだ。収穫が終わった夏のアスパラを見た事がある人は分かるだろう。ふわふわした葉が人の背丈くらいに密に生い茂り、なるほどこれならキジも隠れやすかろう、と思う。語源はギリシャ語の「たくさん分かれる」、転じて「新芽」という意味から来ているそうだ。
さて、下田博士の話に戻る。岩内町郷土館所蔵の資料によれば、博士が冷害の後、いろいろな種子を輸入して試験栽培したものの中に、アスパラの種があったらしい。それがこの地方で自生していたホソバキジカクシと似たものだった。「冷涼なヨーロッパで育っているなら北海道でも大丈夫なはず」と、ここで博士がひらめかなかったら、今の北海道のアスパラ栽培はなかったかもしれない。
当時、アスパラはどうやって食べられていたのか。ほとんどがホワイトアスパラとして育て、缶詰にするのが主流だった。世界市場でその生産を担っていたのはアメリカだ。ホワイトアスパラは、グリーンアスパラが日光に当たらないよう、土をかぶせて成長させる。種類が違うのではなく、育て方が違うのだ。当時はホワイトアスパラの方が圧倒的に多かった。博士は岩内でアスパラを栽培し、1924(大正13)年、同町に「日本アスパラガス株式会社」を設立する。この会社は飲料メーカーとして今も存続している。
アスパラの一大産地として喜茂別が登場するのはその後だ。岩内よりも、喜茂別の土地がアスパラ栽培に適していることが分かったのだ。南向きの斜面が多いこと、積雪が多いので冬でも土が凍らないこと、雪解けのあとに農作業がすぐに再開できること、などがその理由だ。現地では農家に対する説明会が開かれたが、手放しで歓迎された訳ではなかった。なじみの無い作物であること、アスパラは植えてから約3年たたないと収穫できないことなどの理由から、栽培に懐疑的な人たちも多かったという。だが、役場もアスパラ栽培をバックアップし、1929(昭和4)年春に耕作組合もでき、缶詰会社と契約が成立し、本格的な栽培が始まった。その後、アスパラの主要栽培地は喜茂別に移り、アスパラ栽培で一躍その名を知られるようになった。
二つの町にはそれぞれアスパラを記念した碑がある。岩内には「日本のアスパラガス発祥の地」の記念碑が、喜茂別はアスパラガス「栽培」発祥の地を記念し、中山峠に金属製の「アスパラガスの塔」が燦然と輝く。それぞれの町のゆるキャラも、岩内の「たら丸」のスケトウダラはしっかりアスパラを握っている。喜茂別の「ウサパラくん」はウサギのような耳がグリーンとホワイトのアスパラになっている。
産業として根付いたアスパラの缶詰だが、栽培農家と缶詰会社は常にうまく行っていた訳では無い。缶詰会社の買い叩きに悩まされていた喜茂別の農民は、ついに自分たちでアスパラの缶詰を作るという選択をするに到る。「アスパラガス加工を農民の手に」が合言葉だった。
1939(昭和14)年、ついに農民の手による缶詰加工事業がスタート、商標は英語で「ゆりかご」、「発祥」を意味するクレードルとなった。これが今に続く、細長い青い缶にリボンで結ばれたアスパラ、赤いロゴでおなじみの現在のクレードル興農の前身だ。
この計画を推し進めたのは、当時喜茂別村産業組合の専務理事だった丸子斉氏だ。丸子氏は後に社長となる。
作られたアスパラの缶詰はもっぱら輸出されていた。アメリカ製のものが市場で幅をきかせていたが、北海道産の缶詰は品質でそれを凌駕するほどになり、世界から認められるものとなった。1963(昭和38)年、北海道には21のアスパラ缶詰加工業者があった。ホワイトアスパラの缶詰は外貨獲得に大いに貢献したといえる。
クレードル興農現社長の鈴木基さんに話を聞いた。
「かつてはホワイトアスパラだけで3000トンくらいの生産量があったのですが、今は約30トン。百分の一です。国産のホワイトアスパラ缶詰を作っているのはウチとあと一社くらいではないでしょうか。輸出も今はありません」という。
生産量が減った原因として作り手の減少があげられる。一年でアスパラが採れるのは5月上旬から6月にかけての一ヶ月程度でアスパラだけの専業は難しい。植えてから収穫まで時間がかかるので新規参入がしにくい、機械化ができないので収穫を手作業に頼らざるを得ない、収穫期には伸びが早いので1日1回以上の収穫が必要、といったことも作り手が増えない一因だ。
現在クレードル興農は喜茂別と伊達の2ヶ所の工場が稼働している。ホワイトアスパラの缶詰は引続き製造しているが、主力はスイートコーンの製品に移っている。
アスパラの生産量は今やグリーンアスパラの方が圧倒的に多く、ホワイトアスパラは全体の生産量の数%に過ぎない。道内の産地としても近年の収穫量一位は名寄市、次いで美瑛町だ。北海道の生産量は多かったが、最近はハウス栽培を行う道外産の生産が伸びている。
缶詰から生へ、ホワイトからグリーンへ、とアスパラを取り巻く状況は変わった。だが先人達の苦労がなければ、旬の美味しいアスパラを楽しめることもなかったのかもしれない。そんなことを考えながら、今年もアスパラを楽しみにしている。
(文・写真:吉村卓也)
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