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「幌加内には二度雪が降る」と言われる。一度目の雪はもちろん冬。北海道でも有数の豪雪地帯。1978年は非公式ながらマイナス41.2度という日本最低気温を記録した極寒の地でもある。
二度目の雪は夏。7月下旬頃から、町に広がるそば畑が、そばの白い花で真っ白に覆われる。その見事な風景を楽しみに、訪れる観光客も多い。
旭川から幌加内町中心部まで、北西方面に車で約50分。人口約1200人の過疎の町。そばの花が満開の7月、同町を訪れた。町に入ると、道路の両側にそば畑が増えてくる。どの畑も小さな白い花が満開だ。淡い緑色の下地に白色の絵の具を散らしたような風景が広がる。道路の脇にはそば畑を見渡せるスポットもいくつかあり、車を止めて写真を撮っている人たちが多くいる。
目指したのは、そば農家、坂本勝之さんの畑。1942年幌加内町生まれの三代目そば農家で、自身もそばを打つ。祖父は神戸市役所職員だったが、幌加内に開拓者として入植した。当時は自分たちが食べるための食料としてそばを作っていたという。寒冷地でも痩せた土地でも育つ作物がそばだった。植えて90日と短い期間で収穫できるのも好都合だった。
「私が子どものころは、このあたりは林業と米づくり。そばは自分の家で食べるために作るものだったですね」と坂本さん。かつて盛んだった林業で切り出された木材は、当時あった深名線(1995年に廃止)を使って町外に運び出されていて、町の主力産業だった。
幌加内を日本屈指のそば産地に変えたのは、1970年代に始まった減反政策だ。全国的な米余りに伴い、水田の多くは畑への転換を余儀なくされる。試行錯誤してたどりついたのが、かつて自分たちが食料としていた寒冷地作物のそばだった。幌加内の寒暖の差が激しい気候がそば栽培に幸いした。
現在、北海道はそばの全国生産量の約4割を占めている。その中でも幌加内は約3300ヘクタールの作付面積で、自治体では全国一だ。栽培されるのは多くがキタワセ種。北海道での主力種だ。その他、幌加内町農業技術センターで育成された、背が低く風害に強いほろみのり種も一部で栽培している。同町産業課のデータによれば、現在同町そば農家は100戸弱で、減少傾向にある。栽培には広い土地がいるため、新規就農も簡単ではなく、後継者不足は悩みの種だ。
幌加内のそばはブランドとなっていて、全国から引き合いがある。その理由は何なのだろう。坂本さんに聞いてみた。
「JAの品質管理に負うところが大きいですね。収穫も、水分があるうちは刈らない。刈り取ってからも低温倉庫での保管など、とにかく品質を落とさないのが幌加内の自慢です」と話す。
町内には、乾燥施設2カ所、低温倉庫1カ所、製粉工場1カ所、そばの殻をむくための工場1カ所が稼働し、2年後には新しい乾めんの工場を建設する計画もある。
「人並みのことをやっていたのでは注目されない。仕掛けが必要。そばに目を向けてもらえるように努めるのが幌加内の責務だと思ってます」と坂本さん。農協に出荷するのとは別に、自分のそばを加工する工場も数年前に敷地内に作り、そばのブランド化を目指している。
同町に一つだけある高校、北海道幌加内高校は定時制の農業科の高校だ。定時制といいながらも全日制と同じ日課で学ぶ。定時制だと学区のしばりが外れるので、生徒を全国から募集できる。実際に多くの生徒が町外の出身で町内の寮に住む。そば打ちの授業があり、それが必修なのもこの高校の特長だ。
幌加内高校を2018年に卒業した石川朋佳さんは、2年間の会社勤めを経て、今春、そばをテーマに幌加内の地域おこしを目指す会社「トヅキ」を立ち上げた。今も足繁く幌加内に通う。
石川さんは札幌市生まれ。中学校の時の修学旅行で東北で農業体験をしたのが農業に興味を持つきっかけだった。サラリーマン家庭に育った石川さんにとって、農業は初めての経験。自然の近くで暮らす農家の働き方に共感した。
農業高校に行くことも考えたが、普通の高校を受験しようと学習塾に通っていたこともあり、食物関係のコースがある普通科高校に進学。半年くらい通ったところで、モヤモヤが高まった。友達もできたし、授業もそこそこ楽しい。でも、「何かが合わない、それが何かわからない、説明できない、という状況で学校に通えなくなってしまいました」と石川さんは当時を振り返る。
「全くこれまでに経験しなかった挫折で、苦しみました」と石川さん。結局休学して次の道を探すことにした。
やはり農業に関係したいと、全国の農業高校を調べ始めた。畑作に興味があったので、その勉強ができるところ。環境を変えたいと考え、寮生活ができるところを探してたどり着いたのが幌加内高校だった。
「何も無いのがよかった。何より農業に近いのがよかった」と石川さんは当時を振り返る。今も町にコンビニはない。
入学後、先輩たちのそば打ちを見て、「こんなに職人みたいに打てるのか」と驚いた。必修のそば打ち授業の他に、「そば局」という部活にも入って、放課後もひたすらそばを打つ練習をした。きれいなそばになるまでには3カ月くらいかかった。そして、毎年東京で開かれる全国高校生そば打ち選手権大会に3年連続出場する。2017年、3年生のときの第7回大会で、全国30校の中で幌加内高校が団体優勝、さらに石川さんが個人の部で見事優勝した。
この大会に毎年ついて来てくれ、高校でも外部講師としてそば打ちを指導してくれたのが前述の坂本さんだった。今年82歳の坂本さんにとっては孫のような歳だが、石川さんは坂本さんを今も「人生の師」と仰ぐ。
その後石川さんは小樽商科大学に進学したが、大学在学中も幌加内のことは忘れなかった。
坂本さんは言う。「高校1年生のときに出会いましたが、こちらのアドバイスを謙虚に受け止めてくれる子でしたね。高校を卒業してからも、大学の先生を幌加内に連れて来てくれたり、幌加内に思いを持ってくれているのが嬉しい。とにかく今の彼女の動きはすばらしい。幌加内にとってかけがえのない存在になりました」と語る。
「大学に入って、大会で勝つそば打ちではなくて、幌加内を応援する活動がしたいと思いました」と石川さん。「これまでで一番濃い3年間を過ごした場所。人生が変わった場所。そんなところを応援しないわけがない。当たり前という感じです。考えて当然です」と語る。
大学卒業後、設備関係の会社に勤めながら、会社の理解を得て幌加内通いは続けていた。そして、今年の3月に独立。現在、そばをキーワードに、食べるそばに加えて、そばの甘皮茶、そば殻で染める服などそばの付加価値を高め、幌加内を売り込むさまざまな企画を立てて、その実現のために奔走している。
涼しい風が吹き始めた9月中旬、再び幌加内を訪ねた。淡い白だったそば畑はすっかり茶色に色を変えていた。近くに行って見ると、茎の先に黒くて三角形のそばの実がついている。天気のよい日を見計らって、刈り取りに入るタイミングだ。
正午。町中のそば畑で、何台もの大型コンバインがいっせいにエンジンを始動する。水分がなるべく少ない状態で刈るために、町内でのそばの刈り取りは正午からと決まっているのだ。静かだった町中で、そこかしこの畑からコンバインの音が響く。
巨大バリカンできれいに整えられるように、畑はみるみる平らになり、刈り取られたそばはコンバインの中で処理されて、実の部分だけがトラックの荷台に吐き出される。これを工場に持ち込んで振るい、実をきれいにより分け、乾燥させる。外側の黒い皮を剥き、臼で挽かれてそば粉になる。
ちょうど収穫の時期を迎えるころ、同町では「幌加内町新そば祭り」が開かれる。今年も8月31日〜9月1日の2日間、日本で一番早く食べられる新そばを目がけて、全国からそば通が集まってにぎわった。幌加内高校のブースでは、生徒が打ったそばを振る舞い、毎年長蛇の列ができる。
10月に入るとそろそろ収穫も終わりを迎え、新そばが出回り始める。同町産業課の統計によれば、高温と大雨で、昨年のそばの収穫は約1114トン、例年の半分以下という不作だった。今年の収量はまだ発表されないが、豊作を願いたい。幌加内のそばも全国のそば店の店頭へと旅立っていく。
(文・写真:吉村卓也)
ここからは特集に関連して会員の皆さんからよせられたコメントをご紹介します。
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「ひっぱりうどん」!初めて聞きました。シーチキン使って今度作ってみますね(H)
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