札幌市南区常盤にあるプレハブ2階建ての建物が「三島木工」の工房だ。1階の引き戸をがらりと開けた瞬間から、ふわりと木の香りに包まれる。1階には丸のこやカンナの大型機械が鎮座し、ところどころに長さ2メートルを超えるような木材が無造作に立て掛けられている。細かい作業を行う2階の仕事場からは、かけっぱなしのラジオの音が聞こえる。急な鉄製の階段を上って2階に行くと、作業着に身を包んだ職人さんが1人で手を動かしている。三島俊樹さん。2024年3月に80歳になる。
夕張出身。子どものころから物を作るのが好きだった。修学旅行で訪れた観光地の店先で、木彫りのクマの実演をじっと見ていた。「こんな仕事をしたい」と思った。
中学を出たらどこかで働くものと決めていたから、卒業を控えて職安の職員との面接で、木彫り職人になるという希望を伝えてみたが、「近くにそんな仕事はない」と言われる。卒業式の日、先生に呼ばれ、小樽の家具工場の求人を紹介された。翌日に、炭鉱の発破技師だった父と早朝の汽車で小樽へ。すぐに採用が決まり、約2週間後にはその工場の住み込みとなっていた。三島さんの職人人生がスタートした。
工場の屋根裏での共同生活が始まった。最初の2年間は毎日が掃除や配達などの雑用の日々。一切の口答えが許されない徒弟制度の世界だった。誰も何も教えてくれない。
工場の裏には線路があり、夜、汽車の窓から漏れる明かりを見るのが切なかった。「これに乗れば夕張に帰れるのか」と、14歳の少年は外に置かれた材木の隙間に隠れてよく泣いた。
教えてくれないから見て覚えるしかない。先輩職人の技をじっくり観察して自分のものとしていった。たまに先輩が「見せてやる」と言ったときは、一瞬たりとも見逃さないように、その技を頭の中にたたき込んだ。見よう見まねで仕事を覚え、一人前の職人としてのデビューである「職人披露」の席を親方が用意してくれたのは約4年半後だった。年季奉公とも言われた修行期間が終わり、「これからは自分の作ったものに責任を持つのだな」と、気持ちを新たにした瞬間だった。
夕張に戻って独立しろという父のすすめに、「まだ一人前じゃない」との思いが強かった三島さんは、札幌の椅子張り職人の元に移り修行を続けた。小さな町では職人も少なく分業もできない。何でもできた方がいいと思ったからだ。
昔のクッションはコイル式のバネが多かった。バネを何本もつないでクッションの高さを調整する。頼りになるのは自分の手の感覚だけだった。そこに約4年、さらに別の家具製作所に約9年勤めた。箱物づくり、塗り、椅子の作りと張り、どんな仕事を持ち込まれてもこなせるようになっていた。
1980年に独立。会社や住宅の特注の家具製作、修理、内装、すべてを一人でこなしてきた。最初は札幌の豊平区中の島に工房を持っていたが、住宅化が進んで騒音が気になるようになり、1989年に現在の場所に移った。
独立して43年。同じような仕事をしていた職人たちは、気がつけば誰もいなくなってしまったという。
最近は古い家具の修理の仕事が多い。どこに持ち込んでも「直せない」と断られ、最後にたどり着くのが三島木工だ。訪れたときも、高さ6尺(約180センチ)ほどの大きな桐だんすの修理の最中だった。金具を外され、カンナ掛けを待つ。削るのは表面の0.2ミリ程度だという。
木でできた製品ならば直せないことはないというが、条件は「無垢であること」だ。「無垢材は、どうにでもなるんですよ」と、三島さんは語る。表面を極薄く削るだけで新品のように見せることもできるし、木の目を見れば反る方向も予想できる。欠損した部分を補う加工もしやすい、という。100年の時の経過など、何でもない。
札幌市西区小別沢に小さな木工房「チエモク」がある。ここを営むのは、三島さんの長女の三島千枝さんだ。大学卒業後、大手百貨店に就職。「売るよりも作る方が合っている」と、2年半で退社した。
作るなら家具、なら父に習うか、と父の仕事場に入った。だが、時はバブル崩壊後。とにかく仕事が無くてヒマだった。刃物研ぎの練習で、彫刻刀の切れ味を確かめるためにいろいろと木を彫っているうちに、小物製作に関心が向き始める。アクセサリーとして作ったカンナやトンカチのミニチュアや、当時、携帯電話につける黒板消しのストラップがヒットしてお土産屋さんに納品できるようになった。
「小物じゃ食えない」と父には言われながら、独立して15年になった。現在の商品の主力は、ハンノキを使った食器や小物だ。ハンノキはこれまで材としては顧みられることがほとんど無かった木だという。
千枝さんは父が言っていた言葉を思い出す。「森で気持ちよく生きていたのに、切られてこんなところに来たんだ。だからちゃんと使ってやらないと」。
邪魔者扱いされていたようなハンノキに目が向いたのも、そんなことが頭にあったからなのかもしれない。
父、三島俊樹さんは「オレの仕事を覚えても、これからは需要も無いだろうからねぇ」という。三島さんの技術を受け継ぐ後継者はいない。三島さんの言う「昔の仕事」を知る職人はすっかり稀になった。多くの家具を作って世に送り出し、古い家具を直し、生活の場に戻してきた。古くなったからと、捨てられる木製品を見るのは、職人として心が痛む。
一目見て、制作年代、各所に使われている木の材質、木組みの方法、なぜ痛んだか、どう直すのか、木訥(ぼくとつ)とした語り口だが、的確な指摘には技術と経験に裏打ちされた揺るぎない自信を感じる。
「木に関わる仕事はスパンが長い」と千枝さんは言う。「自分の代だけだと、せいぜい20〜30年。木の一生にも足りません。何代かに続く仕事にしたい。1代でやめたくないですね」。
切って間もない木は水分を含んでいるので、家具を作ってもすぐに「暴れ」出して狂いを生じる。父の工房にある木は、20〜30年かけて天然乾燥させている。今は熱をかける人工乾燥が主流だが、家具材として使えるまでに本当は何年もかかるのだ。
ゆっくりと出番を待つ木がまだある。きっと将来、誰かの手によって、生活の場に登場するようになることを信じたい。
(文・写真:吉村卓也)
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