「赤毛」の稲刈りを体験する「チーム絆花(はんか)」の子どもたち。自分たちで刈った稲穂は中山久蔵をテーマにした「現代版組踊」のステージにも飾られる。
秋も深まった恵庭市の田んぼの一角、歓声をあげながら稲刈りをする子どもたちの姿があった。刈っているのは「赤毛」。寒すぎて米はとれないと言われていた道南以北の北海道で、最初に実った米だ。
この「赤毛」の栽培を明治初期に成功させたのが、中山久蔵。カマを手に稲を刈っていた子どもたちは、この中山久蔵を題材に、歌、語り、ダンスで地域の歴史を伝える「現代版組踊(くみおどり)・中山久蔵翁物語」を上演するグループ「チーム絆花(はんか)」のメンバーだ。
中山久蔵は1828年に今の大阪府太子町に生まれ、諸国放浪の末25歳で仙台に腰を落ち着ける。そこで仙台藩片倉家の雑用係となり、蝦夷地警護のため北海道と仙台をたびたび往復した。その後明治維新となって仙台に戻ることを諦め、今の恵庭地区島松沢に入植、その後、今の北広島地区島松沢の駅逓所の運営を任されながら、道南の大野町(現:北斗市)で作られていた「赤毛」を寒冷地に持ち込み、1873年(明治6年)に栽培に成功させた。
「チーム絆花」の練習は毎週2回。小学生から高校生までの多世代。山口さん(右)も練習を見守るが、ほとんど口は出さない。
中山久蔵をテーマとした舞台の発案は、恵庭青年会議所の四十周年記念事業から始まった。2011年、当時の理事長で地元で食品会社を経営する山口龍二さんが、「一過性でない持続可能なもの」「地域の誇りを伝えられるもの」を作りたいとの思いから、企画したものだった。
「記念事業のアイデアを考えているうちに、あるメルマガで紹介されていた沖縄の『現代版組踊』をふと思い出したんです。調べていくうちに、地元の隠れた偉人をテーマに子どもたちが演じる舞台だということがわかり、これなら単なるイベントで終わらないのではと思いました」と、山口さんは当時を振り返る。
「現代版組踊」は沖縄に伝わる伝統芸能「組踊」をヒントに、全く違った現代版の舞台として仕立てたミュージカルのようなもの。1999年に沖縄県うるま市で始まり全国に広がっている。地域の歴史を題材にしていること、地域の子どもたちが出演者であること、支える大人たちがいることが特徴。北海道では「チーム絆花」が唯一の活動グループだ。
山口さんはすぐに沖縄に飛び、リサーチを開始する。生の舞台を観て「何かわからないが、ぐっとくるものがあった」と当時の印象を語る。そこで、やはり沖縄から刺激を受けて始まった福島のグループ「息吹」を紹介され、今度は福島へ。山口さんは舞台や演劇は全くの素人。結果的に、この「息吹」からさまざまなサポートを得て活動を開始した。
まずはメンバー集めのためのワークショップを行った。「恵庭市の中学高校全部にチラシを配布し参加者を募りました。でも最初は9人くらいしか来なくて…。意識の醸成には時間がかかりました」という。しかし口コミでメンバーを増やし、あわてずに時間をかけ意識を高め、2012年11月に恵庭市民会館で初舞台。1500枚近くのチケットが売れた。
題材として選んだ中山久蔵は地元に深い関わりがあるとはいえ、子どもも大人も、「何となく知っている」程度の存在だったという。
現在、チームリーダーの立川茉奈さんは高校三年生。小学校5年生で体験会に参加したのがきっかけでメンバーとなり、これまで7回の舞台に出演し前回は中山久蔵の妻役を務めた。
「久蔵さんの名前は教科書にあったけど、どんな人かはこの活動を葉始めてから知りました」という。最初はダンスが楽しかったというが、役を重ねるうちに「歴史を知らないと気持ちが入らない」と、台本をじっくり読み込み、旧島松駅逓所を訪ねたり北広島市にある墓参りにも行くようになったという。
現在は小学生から高校生まで29名のメンバーがいて、練習は週2回。サポートするのは地元の大人たちだ。山口さんは青年会議所を離れた後も仲間とともに「未来工房」という一般社団法人を作って活動を引き継ぎ、代表を務める。冒頭で紹介した「赤毛」も、未来工房のメンバーの米農家「島田農園」が北広島の農家から種をもらって栽培して作ったものだ。
「子どもたちの自主性を重んじたい」という山口さん。「初舞台の前に『絆花』という名前が子どもたちから提案されました。読み方もわからなかった。『まだ種の自分たちが、周りから水をもらって成長し、笑顔の花を咲かせたい』という意味を込めたそうです」。
旧島松駅逓所の管理人の1人、村井明さん。建物内には中山久蔵80歳の時の大きな写真が飾られている。
中山久蔵が赤毛の栽培を成功させた場所は、今は北広島市が管理する国の史跡、「旧島松駅逓所」となって保存されている。島松という地名は恵庭市と北広島市にまたがっていて、久蔵は最初に恵庭側の島松に入植し、後に北広島側の島松に移り、駅逓を運営しながら米栽培に取り組んだ。ここはクラーク博士が「少年よ大志を抱け」の言葉を札幌農学校の教え子たちに残した場所としても有名だ。
駅逓所は4月下旬から11月上旬まで一般公開されており、中山久蔵にまつわる品々も展示され、敷地内には当時を再現した見本田があり、「赤毛」が栽培されている。地元の小学校が田植え、稲刈り体験に訪れる。
日々の管理はシルバー人材センターからの派遣スタッフが交代で行い、説明にも応じる。管理スタッフの中で一番経験が長いのが村井明さんだが、本格的に久蔵と関わったのは退職して駅逓所に勤務してからだという。
「それまでは駅逓所の前を通っても『なんか昔の建物があるんだな』くらいのものでした」と笑うが、現在、「中山久蔵を顕彰する会」の事務局長で、久蔵関係のシンポジウムがあれば講師も務める。
「赤毛」の稲穂。芒(のぎ)と呼ばれるこの長い毛が赤くなるのが特徴。地元の何軒かの農家が今も栽培している。この毛のために脱穀が面倒で、これ以降さまざまな品種改良が加えられていった。
駅逓所は開拓時代の旅人の休憩所や宿場だが、雨戸一枚しかなく、当時どれだけ寒かったかは想像に難くない。久蔵はここに暮らしていた。館内には久蔵が受けた褒章や展示品とともに、地元の西部小学校の協力で栽培された「赤毛」の稲穂が展示されている。
館内の一室、久蔵の大きな写真が飾られた部屋に達筆の手紙が展示されていた。村井さんの説明によれば、当時の開拓使の開拓判官、庄内藩(今の山形県鶴岡市)出身の松本十郎からのものだという。当時の開拓使はお雇い外国人の意見により、不適と思われた米作りを禁じていた。久蔵の米作りに官からの助けはなかった。だが、久蔵の努力を知った松本は密かにこの米作りを応援した。松本は後に、樺太アイヌの強制移住を進める長官の黒田清隆と強く対立し、憤慨のあまり職を辞し北海道を去る。しかしその後も久蔵との交流は生涯に渡って続いたという。
「たとえ禁じられても、どうしても米を食べたいという強い思いがあったのでしょう。それを理解した松本十郎の存在は久蔵にとって大きな支えだったはずです」と村井さんは言う。その後政府は明治中盤になって、一転して稲作を奨励するようになる。
そして今日、北海道が日本で2番目の米の生産地になるとは、当時の誰が想像しただろう。苗代に風呂の湯をくんだり、川から引いた水を暖めて寒冷地稲作の道を開いた中山久蔵。「赤毛」は「きらら397」や「ゆめぴりか」の元となった。新米を味わいながら、先人たちの苦労にも思いを馳せてみたい。(文・写真/吉村卓也)
北広島市島松1番地1 TEL: 011-377-5412
11月4日から冬季休館中。開館は2020年4月28日
10〜17時 月曜休み 館内見学は大人200円
現代版組踊「中山久蔵翁物語」、今年3月の舞台から。(「チーム絆花」提供)
旧島松駅逓所。国の史跡に指定され館内には中山久蔵に関する資料の展示がある。久蔵の居宅でもあり、駅逓の運営をしながら米作りに取り組んだ。
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