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よく晴れた日に、稚内の宗谷岬に立つと、真っ青な水平線にくっきりと見える島影。樺太です。宗谷岬から約40キロ。肉眼でも見えるほどの距離にあるにもかかわらず「樺太ってどんな場所か知っていますか?」の問いに答えられる人は、どのくらいいるでしょうか。
恥ずかしながら、私も今年になって学ぶことが多くありました。
今年3月末に、樺太(現ロシア・サハリン)からの戦後引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟が解散するという話を聞いて、私は札幌にある樺太連盟北海道支部を訪ねました。
全国樺太連盟は、1948年の結成以降、引き揚げ者の援護や親睦のほか、樺太の暮らしや戦争などの歴史を伝承するため、近年は移動展を全国各地で開くなど活動を続けてきましたが、会員の高齢化で継続が困難になったといいます。会員数はピークだった94年の6300人から激減し、今年3月時点で968人(道内は都道府県別で最多の387人)。平均年齢は84歳を超えました。
解散に伴い閉鎖することになった北海道事務所では、片付けや書類の整理に追われていました。これまで活動の中心となり尽力してこられた北海道事務所長の森川利一さん(91)も、樺太を故郷に持つ一人です。昭和7年に樺太中部の上敷香(かみしすか)に生まれ、昭和23年に北海道に引き上げるまでの16年間を樺太で過ごした森川さん。当時の様子を伺うと、こちらが驚くほど、鮮明に記憶された樺太の風景を次々と語ってくれました。
樺太は、面積全体の8割が大自然林、地下には石炭・石灰石などの鉱物が眠り、近海は世界3大漁場に数えられるほどの水揚げを誇るなど、まさに陸・海ともに資源の宝庫だったといいます。
明治38年(1905年)、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太が日本領となると、資源豊かな樺太に新天地を求め、北海道からも多くの人が移り住みました。
昭和16年12月の国勢調査では、40万6557人が暮らしていたと記録されています。
林業や漁業などで栄えた樺太。特に隆盛を極めたのが製紙業で、あちらこちらに工場が立ち並び、業界大手の王子製紙は、樺太内に9カ所もの工場を持ち、社宅もズラリと並んだそうです。鉄道も整備されていきました。
大正12年(1923年)に、稚内から大泊(現サハリン・コルサコフ)間に連絡船が就航すると、樺太への玄関口として、春はニシン漁の関係者、秋は林業関係者で賑わい、次第に旅行で樺太を訪れる人も増えたといいます。
詩人の宮沢賢治や北原白秋、民族学者の柳田国男、歌人の斉藤茂吉など、多くの文学者も樺太を訪れました。「樺太ガイドブック」なるものも発行されていたと知り、驚きました。
当時、樺太は避暑地としても親しまれるほど、身近な場所だったのです。
森川さんが生まれ育った町・上敷香(かみしすか)。国境から80㎞にある、オホーツク海側の町です。
引き揚げ者らの記憶を元に作ったという、当時の街路図を見せてもらいました。
「わぁ……まるで、今の札幌を見ているようですね」
私は思わず、声をあげてしまいました。
町は、東西南北に整然と区画され、碁盤の目状になっていて、いくつもの南北の道と東西の道が垂直に交差しています。そして住所は、東西を条、南北を丁目で表し「東1条北6丁目」などの地名が記されていました。
川の側には神社があり、そこからまっすぐ伸びる道は「本通り」「山の手通り」「宮通り」と名付けられ、交差するメインストリートは現在の札幌と同様に「大通り」と呼ばれました。
各通りには、さまざまな商店がひしめきあっています。おやき屋・肉屋・魚屋・薬局・タバコ屋・パン屋・文具店・パチンコ屋もあります。ビリヤードに、カフェの文字も。
町の地図に記された小さな文字を一つひとつ追っていくと、活気あふれた、ハイカラと呼ぶにふさわしいオシャレで美しい街並みが、目に浮かぶようでした。
警察署・消防署・町役場・病院などの公共施設や、小学校・中学校・女学校・商業高校もあり、当時の人々の営みを感じ取ることができます。
「春になるとワラビ・ゼンマイ・ギョウジャニンニク・フキなど山菜がものすごく豊富でたくさん採れて、塩漬けにして漬物のようにして食べたり、煮物にしたりしてね。秋になると、フレップ(ツルコケモモ)という実を摘みにいきました。冬はスキーをしたり、犬ぞりに乗ったり、スケートもしましたね……。」と懐かしそうに話す森川さん。80 年ほど前の記憶とは思えないほど、はっきりと言葉を紡ぎます。
「戦前の樺太は活気にあふれていてね。自然も豊かで人情もあって。本当にいいところだった…」
何不自由なくのびのびと育ったという樺太での生活。しかし、戦争・終戦を経て、統治される国が変わったことで、生活環境は逆転していきます。
昭和20年の8月9日にソ連が国境線を突破し南下。樺太での地上戦が始まります。15日に告げられた終戦後も攻撃は続き、樺太では22日まで地上戦が繰り広げられたと記録が残されています。終戦後も、混沌とした日々がしばらく続いたといいます。
「住んでいた町は全部焼かれてしまい、少し離れた農家に身を寄せていました。終戦から一カ月ほどたったある日、ロシアの若い18,9歳くらいの青年兵が自動小銃(通称マンドリン)をもって略奪にきたのです。金目のものは何もないのに、銃口をつきつけられて脅された。父が見かねて土間に手をついて泣きながら懇願して一命をとりとめた」と、九死に一生を得た記憶を語ってくれました。
「戦争というのは、勝っても負けても正気を失うということでしょうね。虐殺もそうですよ。正気を失っている。動乱の中で。明日が分からない時代ですから。戦争はそういうものだと思いますね」
静かに、淡々と語る森川さんの目が印象的でした。
しかし、この後の話に、私はさらなる衝撃を受けました。戦後、本土に引き上げるまでの3年間。森川さんは、樺太の多蘭泊(たらんどまり)という場所で、ロシア人と一緒に造材関係の仕事に尽力します。日本人労働者が42名、ロシア人が15名、共に暮らしながら伐採業務を任されたそうです。その中で、ロシア人との付き合いも日常茶飯事になっていったといいます。
「ロシア人は個人的な付き合いの中では、親切でとても仲良くなれるんですね。ロシア人に対する憎悪は、ほとんど持たなくなっていきました。こちらの意見も聞いてくれて、日本人の勤勉さ、まじめさなどを評価してくれました。人間関係は2年少しですが、お互いに信頼感を持てるようになりました。同じ屋根の下で一緒に暮らすと、人間というのは自然とそうなるのではないですかね」
私はじっと、森川さんの言葉に耳を傾けました。戦争で町を焼かれ、辛い経験をしたにもかかわらず、少し前まで敵対していた国の人と、一つ屋根の下で一緒に暮らし、交流を重ねることで、お互いを理解し合うことができるようになったという、その経験こそが、その後の森川さんの活動の原点なのかもしれません。
森川さんは、北海道に引き上げた後もロシアとの民間交流事業に尽力し、北海道日露協会の副会長を務めるなど、91歳の今もなお、日本とロシアを繋げる活動を続けています。
「平和を作るというのは、人間同士の交流でしょうね。実際に肌で接して、はじめて心を打ち解けて話すという交流しかないと思いますね。それに尽きると思います。」
※この記事の関連動画は近日公開いたします。
北海道には、シベリアでの抑留や、樺太や満州からの過酷な引き上げを経験した方がたくさんいらっしゃいます。しかし戦後76年が経過し、こうした戦争体験の伝承は年々難しくなっています。けれど、そこから学び続けることを止めてはいけないと思います。 「平和」というと壮大なテーマと身構えてしまいがちですが、本当は私たち個人と個人でこそ出来ることがあるのだと、私は森川さんから教えて頂きました。 今、世界でコロナウイルスとの闘いが続き「いつも通りの生活ができることの尊さ」をみなさん感じていると思います。そんな今だからこそ、改めて一緒に考えていきたい。 戦後76年、子どもたちに「平和」を伝えていくために、私たちができることを。
※「森さやかの思うコト」は HTB のサイト「 SODANE」 でも連載されています。
https://sodane.hokkaido.jp/ser...
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