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当別町と北欧との関係は、日本とスウェーデンの協力により、日本にスウェーデン村を作る目的で、輸入住宅地・スウェーデンヒルズを同町に民間業者が開発したことに始まる。1983年に財団法人としてスウェーデン交流センターも設立されたのをきっかけに、その後当別町もスウェーデンのレクサンド市と姉妹提携を結ぶに至った。同財団はスウェーデンヒルズの中に事務所を持っている。8月まで1年間一般財団法人スウェーデン交流センターのスタッフとして勤務したソフィア・ヤンベリさんに話を聞いた。
中学生の頃、日本のアニメが好きでした。高校のときの外国語の授業で日本語を選択し、それから日本語を本格的に学びました。ストックホルム大学に進学し、南山大学と上智大学に留学して人類学や日本語を勉強。現在、ストックホルム大学のアジア研究科の大学院生ですが、スウェーデン交流センターの職員の募集があることをたまたま聞き、応募して合格したので、休学して来日しました。
ここは、スウェーデンよりスウェーデンらしいところがあります。祖父が、当別町の姉妹都市があるダーラナ地方出身です。そこにある古い家が、スウェーデンヒルズの家とそっくり。スウェーデンの伝統的な家が、新しい姿で当別で蘇ったような錯覚を受けることもありました。
環境問題、日本人と自然の関係に興味があります。スウェーデンは緯度が高いので、地球温暖化の影響をいち早く受けます。平均気温の上昇も世界平均より高く、自分の行動が環境にどんな影響を与えるかに敏感な人が多い気がします。飛行機に乗らないという選択をする人も増えています。日本はゴミの分別には熱心ですが、自ら行動する人はあまり多くないように思います。
日本で合計2年半暮らし、大きな影響を受けました。いったん帰国しますが、大学院を卒業したあとは、必ず2つの国のかけ橋となるような仕事に就きたいと思っています。
スウェーデン交流センターには、ガラスと木工の工芸工房がある。
木工房で、自らも家具や木象嵌の制作を続けるのが、島田晶夫さんだ。
島田さんは苫小牧で生まれ、音威子府高校(現在のおといねっぷ美術工芸高校)で木工を学んだ後、富山県高岡市の短大(現富山大学芸術文化学部)で学ぶ。短大卒業後、スウェーデン交流センター木材工芸工房の研修員を経て、スウェーデンのカペラゴーデン手工芸学校で北欧の木工技術を学んだ。2007年に、日本人としては初めてスウェーデンの国家資格である家具マイスターを取得した職人だ。2019年、第66回日本伝統工芸展に象嵌作品の「樺結氷文木画飾箱」が入選した。島田さんに聞いた。
小学生のころ、授業で作った木版画。そのインクの薄いところに現れた「木目」に魅せられたのが「木」という素材と向き合うきっかけになりました。迷わず、木工が学べる高校にを選び、卒業後はさらに木工芸が学べる短大へ進学しました。その後は海外の木工芸に触れたくて、バックパッカーとしてヨーロッパを回り、北欧の家具作りに出会いました。帰国後、今度は学校に行くために再びスウェーデンに渡り、本格的に学びました。
2001年に帰国し、工房を構えました。スウェーデンのマイスター資格は学校を卒業するだけではだめで、実際に工房を運営し、作品を世に出し続けている期間が6年必要でした。
最近はもっぱら木象嵌の作品の注文が多く、そちらを中心に作っています。私の象嵌は独学なのですが、素材の木はいっさい着色せず、自然のままの色です。意匠に合わせて、それに合う色の木を探して組み上げます。手間のかかる作業ですが、光の当たる角度によって、表面の輝きと色合いが違って見えるのが面白いと思っています。たまに、スウェーデンからの職人が来て一緒に制作することもありますが、基本はこの静かな環境で1人で日々、木と向き合っています。
大学生のときに、JAL(日本航空)が自社養成でパイロットを募集することを新聞で知り、へぇこういうのもあるんだ、と思い応募したのがきっかけです。読む
幕末の長岡藩は、会津を征伐しようとする新政府軍の進軍路にあった。その藩に忽然と現れ、藩の独立と「武装中立」を頑なに推し進めようとしたのが河井継之助(つぎのすけ)だ。読む
十勝川温泉は十勝平野の中にこつぜんと現れる温泉地だ。「温泉地」という言葉からイメージされるような山や渓谷というものはない。読む
シュトレンの本場、ドイツではクリスマスをどう過ごし、どんなときにシュトレンを食べるのだろう。札幌在住でNPO法人・八剣山エコケータリング代表のビアンカ・フュルストさんに聞いてみた。読む
北海道のパンやお菓子の店にはシュトレンがすっかり定着した。毎年楽しむ人が増えた証といってもいいだろう。そうした中、お客の幅が広がるにつれ、オリジナリティのあるシュトレンも登場している。読む
釧路市の住宅街で偶然、行商する人を見つけた。リヤカーの主は、新木トシ子さん。お天気の日の昼ごろ、和商市場あたりからひと回りするという。住宅や店の前で停めるたびに人が出てきて、おしゃべりしながら買物が始まる。読む
箱に入っているのは、茶色い鉄鉱石、黒い石炭、白い石灰石の三種類、を模したクッキーだった。箱の中にそれらの本物を写した写真が入っているが、クッキーの写真かと思うほどそっくりだ。鉄鉱石はココア、石炭は黒ゴマ、石灰石はきな粉味だ読む
室蘭市にあり、2014年に閉校した室蘭市立絵鞆(えとも)小学校に円形の校舎が2棟並んで建っている。一棟は教室、もう一棟は体育館で、昭和30年代に建てられた体育館棟は老朽化のため、解体の方針が出ていた。読む
昭和20(1945)年3月、第2次大戦のさなか、栃木県から戦火を逃れて、1人の版画家が妻の親類のいる白老に引っ越してきた。その名を、川上澄生という。読む
白老町に、飛生(とびう)という場所がある。今は「字竹浦」という地名になったが、「飛生」は町内会や川の名前に残る。人家も少ないところだが、かつてここには「飛生小学校」があった。読む
昭和の頃、札幌のイチゴは甘酸っぱくて柔らかかった。市内の果樹園は今もイチゴを栽培するが、果肉がしっかりした品種が主流。そんな中、わずか数軒が作る「さとほろ」という品種がある読む
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今回の特集で取り上げたパンやバターができるまでに、大きな役割を果たしたのが「アマムの会」というグループの存在だ。これは、道北、天塩川流域の農家、食品製造者、料理人など、おいしものを作っている人たちが中心となって、地域の食文化の向上と発信を進めるための団体だ。読む
寿都町は積丹半島の西側に位置し、日本海に北に向けてぽっかりと口を開けたようなきれいな弓形の湾に沿って町がある。札幌から約150キロ。読む
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かつて、定山渓にも多くの定住人口があった時代があった。製材、営林署、豊羽鉱山、鉄道。何よりホテルや旅館の多くの従業員が、家族で会社の寮に住んでいた。読む
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ふわふわ、こんにちは。「ふわふわラムキン」作者 大家典子さん
北海道の羊の毛でできたマスコット、「ふわふわラムキン」。すべて大家(おおいえ)典子さんの手から生まれる。読む