入社した1988年、赴任した姫路支局の玄関前には兵庫県警のパトカーが24時間待機していた。前年の5月3日、朝日新聞阪神支局で記者2人が殺傷された。「赤報隊」を名乗る犯行声明文には「すべての朝日社員に死刑を言いわたす」と記されていた。事件はいまも未解決のままだ。
カーテンの隙間から白黒の車体が見える1階の畳部屋で、初めての泊まり勤務に就いた。不思議なことに怖くなかった。ただ、事件の最前線にいるという高揚感で一睡もできなかった。
北海道支社管理部長の小池淳は大阪社会部記者だった20年前、右翼の思想的支柱と呼ばれていた男性を取材した。その言葉の端々に犯行声明文と重なる部分を感じ取った。ペンを走らせながら「事件と関係があるのでは」と興奮したことを覚えている。男性の自宅で1対1の取材だったが、恐怖心よりも記録しなければとの意志が勝っていた。男性はその数年後に死去した。
戦火のウクライナでは、各国の記者が現地に入り現状を伝えている。たとえ銃口を向けられても決してペンを離さない。防弾チョッキ姿からそんな使命感が伝わる。
札幌を拠点に執筆活動を続け、昨年急逝した外岡秀俊が11年前に朝日新聞記者として書いた最後のコラムは、こう締めくくられている。
「『非戦』や『人権』を命がけで守る。その『ペンとの闘い』が、今も私たちジャーナリストの課題だ」
阪神支局襲撃事件から35年。その間、新聞記者の働き方や振る舞い方、世間からの見られ方は大きく変わった。それでも、一番大切なことは変わっていない。(敬称略)
朝日新聞 北海道支社長 山崎靖