ダンプか何かが突っ込んだのかと思った。
1月17日午前5時46分、ドンと突き上げられるような衝撃で起こされた。
兵庫県西宮市のマンション1階にある自宅は部屋ごと大きく横に揺さぶられた。室内は停電し、ガラスや陶器の破片が床に散乱した。「大丈夫か」暗闇で声をかけると、「大丈夫」と返ってきた。
大阪社会部の記者だった私は、帰宅が深夜になるため、妻と1歳の長男とは別の部屋で寝ていた。建物が崩れたら、家具の下敷きになったらどうなっていたか。
3人とも無事だったのは奇跡なのかも知れない。
阪神淡路大震災で妹を亡くした加藤いつかさんの手記『はるかのひまわり』を読んで、そう感じた。
中学3年生だったいつかさんは神戸市内のアパートに妹のはるかさんと両親の4人で暮らしていた。震災で1階部分が押しつぶされて生き埋めになり、全壊した家の中から救い出されたが、はるかさんは助からなかった。小学6年生だったはるかさんは、この春からいつかさんと一緒に進学するはずだった。
半年後の夏、アパートのあったがれきの中で一輪のひまわりが咲いた。はるかさんがかわいがっていた隣家のオウムの餌が芽を出したようだ。
「はるかちゃんの亡くなった場所にひまわりが咲いている」
地域の人たちは震災の翌年からそのひまわりの種をまき、花を咲かせていった。
あの日から28年。「はるかのひまわり」の種は全国に広がった。記憶の風化にあらがうように、毎年どこかで大輪の花を咲かせている。