手もとに一枚の名刺がある。
名前は「高橋治則」、肩書は「EIEインターナショナル取締役社長」。
東京五輪・パラリンピックをめぐる汚職事件で逮捕された高橋治之・組織委員会元理事の1歳年下の弟である。
私がこの名刺を受け取ったのは、29年前の1993年。
治則氏は資産総額が1兆円を超えるとも言われ、社会部記者の間ではその名を知らない者がいないほど政財界に大きな影響力を持っていた。
入社6年目の私は検察担当の先輩記者とともに、都内の高級住宅地にある治則氏の自宅前で帰りを待っていた。大阪地検特捜部が捜査していた、和歌山市のリゾート開発をめぐる事件に関与していたためだ。明け方近くに帰宅した治則氏は、話を聞こうと近づいた私たちを自宅に招き入れ、悪びれる様子もなくリゾート開発の人と金の流れを語った。このとき、治則氏の口から和歌山選出の大物政治家の名前が飛び出した。数日後の朝日新聞の朝刊には「○○代議士側が関与」の大きな見出しの記事が載った。
治則氏はその後、経営する信用組合の不正融資事件で逮捕され、無罪を主張して最高裁に上告中の2005年に病死した。
元理事の逮捕後、段ボール箱の底にあった当時の取材ノートをめくってみた。少し黄ばんだ紙に「必要悪」という文字があった。私たちの取材に対して、治則氏が自らの役割を評した言葉だった。
元理事が弟からどのような影響を受けていたのかは分からない。ただ、東京五輪における元理事の存在を「必要悪」と片付けることは決してできない。
朝日新聞 北海道支社長 山崎靖