ジョニー・ディップ主演の映画「MINAMATA」で、真田広之演じる男が自らの体をチッソ水俣工場の鉄門扉に鎖で結びつけるシーンがある。「責任ば取るまでここは動かん」と叫ぶ男は、チッソ水俣病患者連盟委員長だった川本輝夫さんがモデルとされる。
実際の川本さんには、闘士という印象はなかった。私は大学4年のとき、水俣に1カ月ほど滞在した。差別や貧困、環境汚染といった人類の抱える問題が水俣に集約されていると感じたからだった。患者支援運動の拠点だった水俣病センター相思社に寝泊まりして、甘夏栽培や堆肥作りを手伝いながら、川本さんに連れられて座り込みや未認定患者の集会に参加した。
同じ世代の子どもがいる川本さんにとって、私は息子のような存在だったのかも知れない。就職が決まっていた私を、新聞記者の卵だと周囲に紹介してくれた。
「一人前になったらちゃんと伝えとくんな」
そう言って私の顔を見つめる目は優しかった。
映画のラスト、男は裁判所の前で「勝訴」と書かれた紙を掲げる。
チッソの責任を初めて認めた熊本地裁判決から今年で50年。これまでに計2284人が水俣病と認定された。一方で、国の基準を満たさないなどとして棄却された人は延べ1万7704人にのぼり、未認定患者ら約1600人が損害賠償などを求めた裁判はいまも続いている。
川本さんは24年前に67歳で亡くなった。
「あんたら何しとったんじゃい」
いまだに解決していない水俣病の現実を前に、川本さんの厳しい声が聞こえてくるようだ。その言葉は私たち新聞記者にも突き刺さっている。
朝日新聞 北海道支社長 山崎靖