年末になると必ず思い出す事件がある。
1989(平成元)年、入社2年目の私は兵庫県たつの市の駐在記者だった。12月27日、この静かな小都市で生後3カ月の乳児が誘拐される事件が起きた。
報道協定が成立すると、取材拠点となった市内の小さな民宿に社会部の記者がどっと押し寄せてきた。新米の私に課せられた仕事は地元警察署での留守番だった。31日午前2時過ぎ、朝刊作業が終わったので少し休憩しようと宿に戻った。余り物の弁当を食べ、うとうとしてしまったところに県警本部の記者から電話があった。
「犯人が自首したんじゃないか」。慌てて署に戻ったが後の祭り。留守番を命じられながら、容疑者が乳児と一緒に出頭するという決定的瞬間を見逃してしまった。その悔しさと情けなさは、33年経ったいまも忘れることができない。
自首したのは38歳の女性だった。1年前に念願の赤ちゃんを身ごもったが、5カ月後に流産。妊娠を喜んでいた夫に打ち明けられず、妊婦服を着て装っているうちに引っ込みがつかなくなった。たつの市内の喫茶店で乳児を連れた母親に「赤ちゃんを抱かせて」とせがみ、そのまま逃走した。
女性は粉ミルクや紙おむつを買い、ベビー用のお風呂も用意していた。赤ちゃんには「健太」と名前を付けて、乳児用のつなぎ服を着せていた。逮捕後は、「早く親元に帰してあげたいと思っていた」と涙を流したという。
自首するまでの3日間。母親を演じ続けた女性は、一瞬でも幸せだったのだろうか。
年末になると思い出し、考えている。