この夏、初めて奥尻島を訪れた。
民宿の玄関棚に、島の名所を案内するパンフレットに交じって、一冊の本が立てかけてあった。日焼けした背表紙には『津波に襲われた島で 北海道奥尻高校三年生と担任の記録』とある。
筆者の今井雅晴さんは高校の教師として20代で奥尻島に赴任した。3年生の担任だった1993年7月、北海道南西沖地震が起きた。本には、家族や家を失いながらも進路を切り開いていった生徒らと向き合った記録が綴られていた。
津波や火災で175人が亡くなり、27人が行方不明となった奥尻島には当時、全国からマスコミが押し寄せた。今井さんは、彼らから受けた印象についても語っている。
「私も取材された。誘導尋問をして、『三人の生徒が、進学から就職に変えた』と言わせたいらしく、かなりしつこくいろいろな角度から質問してきた。私は、むっとして、『三人が進学から就職に変えたと言わせたいのなら、答えることはできない』と言い、続けて『変えたのではなく、現在はまだ迷っているのです』と言うと、『だったらそれでいいです』との答えが戻ってきた。頭にきた。とにかく彼らは、話を作り上げたいのだ、『悲惨な話』として」
今井さんはあとがきで、こう記している。
「秋、冬、春、夏、秋、冬、春、夏……これを何回繰り返せば、奥尻が奥尻になるのか…」
地震からちょうど30年。その節目の日を伝える記事が朝日新聞東京本社版にも載っていた。
何のために取材し、何のために報道するのか。
小さな記事を読み返しながら、考えた。