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>HOME >投稿塾 >VOL216「いちばん古い北海道の記憶は?」
投稿塾
今月の投稿テーマ
『いちばん古い北海道の記憶は?』

50年前の札幌は結構砂利道が多かったのを覚えてます。(おかっきーさん)

北海道は田畑、家屋が広がる平坦地よりも、山が後ろに迫った地形が多いように思います。そこに、1次産業を主に暮らす多くの人がいて、自然との折り合いの中で、神社を建て神に祈り、厳しい自然に畏敬の念を抱きながら生活していたと記憶しています。そうした生活のこめられた時間の積み重ねが、今の便利な時代につながっているのでしょう。(コーヒーに自信ありさん)

野幌で生まれ小学校5年まで住んでいました。今は江別情報図書館が建っています。当時はお隣は農家で鶏を放し飼いしていたことを思い出します。
また冬は裏に沢があり、父親とスキーに行った記憶があります。いまは住宅・商業施設が密集していますが、55年前はこんな感じでほんとに田舎でした。(ともっちさん)

中学生まで札幌に住んでいました。一番古い記憶は60年前くらい、幼稚園の頃でしょうか。家の前の道路を馬が荷物を運んでいました。春先の強い風を「馬糞風」と呼んでいました。馬や風景の映像と臭いまで、覚えています。(のぼるさん)

60年以上前、兵庫県から十勝に引っ越しました。お別れの挨拶の時、先生が「○○さんは、もう二度と会えない遠い所へ引っ越します。」と、クラスメートにおっしゃいました。皆が、「オオカミやクマが出るんだよね。」と、口々に。夜、風が強く吹くとオオカミの遠吠えかと怖かったです。
街中を荷馬車が走り、蹄鉄を打つところもあって、びっくりでした。馬が痛がらないのが不思議で学校帰りにじっと見ていました。
(星の川さん)

最近クマは本当に出始めていますね(H)

釧路育ちなので、霧にむせぶ寒い夏が釧路らしくて好きでした。夏休みにはラジオ体操に参加したり、お盆には近所の盆踊りに二カ所掛け持ちをしてお土産をもらいました。漁獲高日本一の釧路は夕焼けも世界で三本の指に数えられていました。自慢できる釧路を応援しています。(cowkoさん)

小さい頃札幌の出てくる際に、石狩川を渡船で使用していました、小学校の高学年までかな。(きたの旅人さん)

私は今年38歳なので当然100年前の北海道はわかりませんが、北海道へ訪れた際に「北海道開拓の村」という博物館?へお邪魔したのが一番古い記憶です。
ちょうど冬だったので、一面雪景色の中に昔の建物だけでなく、当時のものを模した旅館などもあってタイムスリップしたかのような感覚になります。歴史や文化などを知る事も出来、広大な敷地の中を冬の期間はソリを利用する事も出来たりと、楽しく学ぶ事が出来ました。(YUKIさん)

51年前、19歳の時の札幌です。西5丁目通りを路面電車が走っていて北24条に車庫があり、向かいの建物に「鳥政」という焼き鳥屋があった。そのそばでは、「阿Q庵」という立ち食いそばの屋台がよく店を出していた。屋台のおやじがとても面白く「俺はイブモンタンにシャンソンを教わった」などと大ぼらを吹いていたこともあった。オリンピックを前に札幌が大きく変わるころのホンの一場面です。(ヒロシさん)

私が幼い頃に両親が連れて行ってくれた、夕張の石炭の歴史村です。30代となった今でも何となく印象に残っていて、暗い洞窟のような所でわくわくした記憶があります。その後のニュースで閉館したと知り残念でしたが、今は石炭博物館という名前で営業しているのですね。今年息子が産まれたので、大きくなったら連れていきたいです。(ミクさん)

空知や室蘭等、石炭や鉄鋼で栄えた往時の歴史は語り継いでいきたいですね(H)

猿払村字小石に3つの炭鉱があった。劇場もあって、青いキラキラした衣装を着た男の人が歌っていた。(まささん)

わからない。(けぃたんさん)

1970年代、「小樽のおばさん」…別に誰の親戚でもないのにそう呼ばれている魚屋さんがいました。週に一度、小樽から鉄道を乗り継いで、岩見沢の田舎まできてくれたのです。大きな竹かご?を背負ってはるばる小樽から、朝とれた新鮮な魚を運んでくれる、今思えば内陸の農村では貴重な食材だったのでしょう。まだ各家には車もない時代でした。小学生の私は親と一緒にかごの中の魚をながめ、夜には美味しい魚をいただきました。(はりねずみんさん)

札幌雪まつり(ごんちさん)

50歳の私が幼稚園の頃、旭山動物園にいた
片足の白熊(母親に噛まれて失った)の事が思い出されます。(びゅうさん)

美瑛町のお婆ちゃんの住んでいた家の真ん前には山、裏には川が流れ、のどかな風景でした。(キューピー姫さん)

札幌の円山動物園について。
私が小さかった頃は遊園地の印象が大きい。今ではアジアゾーンなどのエリアが拡張されたため、遊園地は無くなってしまったが、当時は乗り物の発進のサイレンやアトラクションに乗る乗客の悲鳴など賑やかだった。
閉鎖される直前に五百円で乗り放題というキャンペーンもやっており、最後に楽しもうと多くの人がいたのを覚えている。
近くの円山競技場では、冬にスケートリンクが作られたのも覚えている。最近はおそらく開催されていないようだが、自分にとってはスケートに初めて触れた場所なので印象が大きい。

(Emi-gleさん)

ふるさとに線路が残っていました。幼い頃、私の街に汽車が走っていたのですが、記憶にありません。ただ廃線間もなかったので線路が残っており、よくその線路の上を歩いたり、座っておしゃべりしたり、野の花を並べてお花屋さんごっこをしました。
もう汽車はこないから、ゆっくり日が暮れるまで遊びました。石炭を運び、人を運び、輝いていた時代もありました。夕張鉄道がわたしの街から消えたのはもうずいぶん昔のことです。(風さん)

現在58歳、家庭内以外での古い記憶を頭の中で巡らせました。
その結果よみがえった記憶は、幼稚園前に行った旭山動物園と円山動物園です。
動物園は子供にとって偉大なんですね。(ピーコさん)

私もタイガーマスクが好きで動物園でずっとトラの檻の前から離れられませんでした。年齢バレますね(H)

60年以上前、おばあちゃんに連れられて
千歳祭に行き、日暮サ―カスを観た事。
バイクが網の中を回るスピード、爆音、燃料の匂いが、強烈に記憶に残っております。

帰りに、創刊されたばかりの(少年サンデー)を買って頂いた事も…(tonkさん)

現在55歳です。函館出身ですが、小学生時、学校前に海岸で遠洋の見送りをした記憶があります。紙テープに大音響で出港です。よくわからなかったのですが、今はないのでしょうね。(タカヨッコさん)

1922年は母の生まれた年です。今は亡くなりましたがいちばん古い記憶は 雪が多くて 幼かった私の背丈より高く降り積もった日は 家の前にかまくらを作ってもらい妹とおままごと遊びをしたり 母が作ってくれた熱いお汁粉を食べてたりして楽しい時間を過ごしたことです。とにかく かまくら作りができるほど雪の多かったことが記憶に残っています。(HIDAMARIさん)

一番古い北海道の記憶は、大通公園に家族でピクニックに行ったことです。季節までは覚えていないのですが、なぜかタッパーに入れてきた麦茶をみんなで飲みながら、花を見た記憶があります。大通公園はずっと変わらないでほしいな〜(りょうさん)

室蘭市の旧市街地の賑わいがすごかった(キョウゴさん)

雁来のコンサドーレのサッカー場が20年前はそこまで行くのに舗装されていない道でした(ばいそんずさん)

釧路湿原にいた(笑顔日和さん)

家内の旧姓、田村、(ヨシヒロさん)

ロコカレー情報はとても楽しく嬉しい企画です:)!!(のんのさん)

よく知りません(るっとさん)

北海道に行った事がありません。(ふみかほまみーさん)

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