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>HOME >投稿塾 >VOL216「いちばん古い北海道の記憶は?」
投稿塾
今月の投稿テーマ
『いちばん古い北海道の記憶は?』
今から100年前の大正11(1922)年、北海道内に6つの「市」が誕生しました。
札幌、小樽、函館、室蘭、旭川、釧路です。
この場に投稿をくださる方に100歳以上の方はいないような気がしますが、みなさんの記憶に残っているいちばん古い北海道の記憶はどんなものでしょう?
100年前とは言いません。昔の北海道、どんなだったのでしょう。上記の6市に限りません。
ぜひ、眠っている記憶を呼び覚まし、お聞かせください!

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北海道博覧会です。海洋博覧会でしたか。小樽から祝津の水族館まで船で行った気がします。大人になってみるとそういうものがあったのかすら記憶の彼方ですが。(ひできさん)

75歳です、荷物の配送(石炭等)は馬車で馬はゆっくりなので冬、荷台につかまり(怒られましたが)竹スキーで雪道を滑った記憶あります(市内です)
(とんぼさん)

私の生まれ故郷は大夕張です。そこでは12歳迄、住んでおりましたが今ではダムの底になって故郷は失くなりましたが。心の中には残っています。その頃は近所付き合いも密で楽しかった思い出ばかりです。(明菜ちゃんさん)

青函連絡船に乗り、函館港に着いた日のこと。本州出身だったので、初めての北海道上陸だった。北島三郎の歌を思い出した。(yuhira3さん)

古い記憶といえば、馬車が走っていたことです。道路も舗装されていなくて馬糞が落ちていたことを思い出します。(hosinoyumeさん)

旭川在住。昭和40年頃はまだ砂利道でした。車の行き来の際には土ほこりが舞い上がっていました。そこにパルプの廃液がまかれ,あの頃はありがたかったことを思いだします。夏は忠別川でよく遊びました。川に堰を作りドジョウやウグイをすくって遊びました。大人は川で車を洗っていました。自宅周辺は一面田んぼで春には近所の奥様たちが田植えの手伝い。一列に並んで見事に等間隔で植えられていたことに感動しました。買い物公園ができる前,「かめや」でソフトクリーム、駅前ビルでラーメンを食べるのが楽しみでした。そのラーメンやの隣に金魚屋さんがあり横目でみながらラーメン屋に入り、太い丸太の椅子を母に動かしてもらい食べました。 (ねぎとろぼんばーさん)

風景がありありと目に浮かぶような投稿、有難うございました(H)

函館市の路面電車(函館市電)の思い出です。大正2年(1913年)開業なので今年で109年になります。路面電車に関しては西高東低で
東京以北では札幌市電と2都市のみです。路線系統もたくさんありましたが、昭和40年代に削減されて寂しくなりました。
ヨーロッパでは有名な都市には必ずといっていいほど、トラムが活躍しています。環境にも人にも優しい乗り物を残して行きたいものです。(naataさん)

室蘭市には、トタン屋根がいっぱいでした。(きたじんさん)

やはり、夏甲子園、駒大苫小牧の田中投手と早実斎藤投手との投げあいですね。最後のバッターが田中投手になったことに運命を感じました。(金剛般若経さん)

昔、札幌市の道路で 3輪の自動車が走ってるのを見たことがあります。(くっしさん)

40年前の札幌 雪が多くて スキーを開いて通学した記憶があります(アイスニコニコさん)

北海道で最古の温泉が知内温泉と聞いて、行ったことがあります。趣のある温泉で、良かったと思いました。北海道は温泉天国なので、数多くの温泉を廻りたいと思っています。既に、道南とニセコ、登別の70%の温泉旅館に行ったと思います。(としちゃんさん)

私は今、74歳になりますが、藻岩山の麓の納屋を借り、父が住めるように改造し祖母を入れ6人で生活。真駒内の米兵もいた、自衛隊の倉庫番で勤めてたようで、珍しい袋入りのココアやチョコレート菓子など食べた記憶があります。ホロ付きの自衛隊トラックで、海水浴に連れていって貰ったり、楽しかった記憶があります。その後、小学校の用務員になり、定年まで働いてました。5、六歳の頃、創成川の川に掛けたサーカス小屋に、祖母に連れられ、バイクの曲芸に驚いた記憶もあります。火災の時だったのか、どうかは覚えてません。大通りの手作り雪まつり、丸井さん(でぱーと)貧しい生活だったけど、色々な思い出をくれた親に感謝です。(きよちゃんさん)

岩見沢での小学校時代の冬グランドばスケートリンクになっていました。また、冬のスキー遠足、帰りはスキーをつけたまま、帰ったことを思いだすます。車も少なくのんびりしていたと思います。七十才
(ごろうさん)

小学生のころ、一人で蒸気機関車に乗って祖母の家に泊まりに行ったこと。50年以上も前なので、子どもが一人で汽車に乗っても安全な時代でした。(ゆうきの母さん)

小樽は市場がたくさんあって、家族で買い物が楽しみでした。(シュガッチさん)

現在66歳の私の出身地は小樽で、父親の転勤で札幌、岩見沢と小学校を転校しました。小樽に住む叔母の家には、私の妹や従弟たちと小学校の夏休みには、毎年遊びに行きました。その当時、叔母は自家用車(パブリカに乗っていました)を持っていたので、蘭島の海水浴場や水源地に連れて行ってもらって、楽しく泳いだ思い出が今も記憶に残っています。(石さんさん)

多分今以上に気候が寒冷なのは間違いないなあと
思います。今の地球温暖化は何とかして欲しいです!!(野球好き1211さん)

砂川に住んでいて、母の実家が薄野でたまに出てくると賑わいがうれしく、帰るとき寂しく札駅のホームでグリーンとオレンジの水玉の柄のアイスカップを買って列車の中で食べていました。千秋庵でアイスクリームを従妹たちと食べに行きました。(プー母さん)

修学旅行で来た札幌・登別 50年前は温泉の湯気いっぱいでした (ryoさん)

石狩街道から見渡すかぎり、一面が原野でポプラ並木が一際目立っていた記憶があります。(40年位前)(ユリゴーヤさん)

昭和32年生まれ
バス通りは砂利道で馬車も走っていた。当時住んでいた市営住宅は4軒長屋のブロックの家でお風呂もなかった。手押しポンプの記憶と、水道の記憶が両方ある・・・(rieさん)

56〜57年前、両親と一緒に室蘭の丸井さんのレストランでホットケーキを食べるのが楽しみでした。(ちょこびさん)

北海道人あるあるはデパートの丸井に「さん」を付けることですね(H)

子どもの頃の札幌市は市電の路線が多く「北24条」「苗穂」「桑園」「豊平」「円山公園」の方まで路線があり高校時代は市電で通学していました。(チュー助さん)

昭和26年生まれです、旭川の近くの和寒で育ちました、
当時の旭川市は田舎の子供にとっては大都会でしたね。
高校も和寒から旭川まで通ったのですが朝の通学列車がSLでした。(TAKさん)

札幌市清田区まで、地下鉄が延伸するという話がありましたが、立ち消えになり、残念です。(ゆまむさん)

道東の田舎町で暮らしていました。冬は馬橇が道を通り、車は殆どありませんでした。昭和40年代からモータリゼーションで世の中が変わりました。
昔はアメリカ映画のように車を皆が乗ることは出来なと思っていましたが、アメリカにちょっと近づいたと思いました。(たっちゃんさん)

町には蹄鉄屋さんが有って、馬の蹄を作ったりしてました。
お馬さんが、店の中で片脚を縛られ、足を上げて蹄を直していました。鉄を打ちこまれるのが可哀そうな気持ちで見ていました。人間が靴を履くと同じなんですが、子供にはその考えは出来なかった。風が吹くと町中に馬糞が舞っていました。開拓地北海道、馬は貴重な貴重な戦力でした。
何故か蹄鉄屋さんに繋がれ、足を上げてたお馬さんの記憶が鮮明です。(よんちゃんさん)

40代、江別市出身です。小学生の頃、戦争の時代を知る祖母から「昔、製紙工場でね、戦争末期、極秘で紙製の軍用機を作ろうとしてたのよ。紙飛行機で戦おうだなんて笑っちゃうけど、みんな追い詰められて真剣だったのね」と聞いたことがあります。穏やかな北海道だけど、私の知らない昔の姿があるんだなと幼心に思いました。祖母も亡くなり、そんな話を聞く機会も失われましたが、もっと聞いておけばよかったと悔いています。(とみほさん)

昭和24年頃、石川県から札幌に越してきた。家族で札幌駅に降り、輪たく(ホロ付きの自転車)に乗り、目的地(親戚宅)に行った記憶がある。
翌年、千歳駅前からも同様の乗り物に乗った記憶もある。貧しい時代の乗り物と思っている。(茶トラさん)

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