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>HOME >投稿塾 >VOL123「お正月メモリー」
投稿塾
今月の投稿テーマ
『お正月メモリー』

イライラして、いつもの自分と違ったことを言ったとき、後から子供にお父さんと違うと言われた。反省したが、自分の考えが伝わっていることがわかり嬉しかった。(サイコロカバさん)

仕事の関係で、、大晦日から元旦まで泊まり勤務で、仕事中に新年を迎えた悔しさ(笑)(リラクマ男さん)

お正月というと、家族で初詣に出かけ、帰宅後、長姉の友達を呼び、ともに百人一首を楽しんだ小学生の頃が忘れられません。今は、長姉は亡くなり、次姉、長兄とは、縁切り・音信不通の状態・・・・・・。(賢吉さん)

お正月といえば、家族で2泊3日・登別温泉第一滝本館に泊まり、決まって私が体調を壊し医者にかかった幼い頃を思い出します。(けいこちゃんさん)

学生の頃年賀状配達のアルバイトやっていましたw(ホワイト ソックスさん)

地方の都市に住んでいた子どもの頃、初詣のために深夜家族で毎年出かけたことを覚えています。夜の町並みは普段とは別の顔で、息を白くしながら長い時間歩いて神社に着くと、灯篭の明りが迎えてくれました。大勢の人たちの後ろに並んで御賽銭を投げ入れました。一番古い新年の思い出です。(みやさん)

埼玉県へ嫁いだ娘が、孫を3人連れて10年ぶりに正月に帰る予定です。
じじ、ばば楽しみにしています。(ちびさん)

お正月はスキー場でおもちつき。(りっかさん)

余命が言い渡され、亡くなった妻の父と最後に楽しんだ正月が忘れられません。(タカヨッコさん)

おせち料理はいつも母と作っていました。ただならぬ砂糖の量に驚いたり、つまみ食いしすぎて食傷したり。今でも黒豆は必ず自分で作ります。(Asukaさん)

大晦日に「良いお年を~」と言って会社を退出し、その数時間後に「あけおめ~」と出勤の毎年。
休憩室でニューイヤー駅伝と箱根駅伝を見るのが、正月の過ごし方ですW(にゃんにゃんにゃんこさん)

私が子供のころは、親戚が集まると、必ず百人一首をしていました。
3人1チームを作り、何度も対戦していました。(りんごパイさん)

子供のころは、親戚宅に集まっていました。おせちに欠かせないのは、道南名物「くじら汁」です!(うさぎさん)

久しぶりに札幌に戻ってきたので、子供や孫と過ごすお正月になるのが楽しみです。(としちゃんさん)

昭和は遠くなりにけりで、子供の頃のお正月の雰囲気を思い出し懐かしさでせつなくなります。それだけ自分が年をとったのも、せつなくなりますね~(ちゃんさん)

お年玉を皆さんからいただいたこと。(とらうまさん)

社会人1年目、会社の先輩から最北端はどこかと聞かれ、暮れに礼文島のスコトン岬を見に行き、正月を稚内で迎えましたのが懐かしい思い出です。因みに、会社は名古屋でh仕事納めの翌日から移動しました。。(エロダスノッコさん)

独身のときは病棟勤務で、年末年始必ず夜勤をしていました。患者者さんと今年はいい年でありますようにと新年の挨拶をしていました。(じゅんさん)

子供の頃は、朝方届く年賀状が楽しみで、届くまで起きていようと誓うのに、気づくとコタツで寝てしまっていて布団まで運ばれている...そんな大みそかでした。最近は年賀状を貰う機会も減って寂しいなぁ。(こしあんぱんださん)

煮しめを食べました(samaruさん)

4年前家族でハワイへ行きました(ばいそんずさん)

子供たちを連れ私の実家に2日に、妻の実家に3日に行くのが恒例でした。今は両親が亡くなり、三が日家にいます。楽は楽ですが、寂しいものです。(はーちゃんさん)

数年前に大病を患ってからすべからく減塩生活を送っています。正月料理は濃い目の味付けになってしまいますので、目だけで楽しみたいと思っています。薄味も慣れるといいものですよ。(りゅうちゃんさん)

子供のころ、元旦には一族郎党二十数名が参集し祖父のもとにワイワイと賑やかでした。孫も子供も芸を披露したり、皆で歌を歌ったり、百人一首やゲームをしたり、楽しい想い出です。普段では出ないご馳走も沢山ありましたが、その頃は、サイダー・リボンシトロンことにオレンジリボンシトロンが大好きでした。(あおいうみさん)

突然入院して大晦日、お正月を病院で過ごした
病室は一人きり。今、思い返しても悲しい思い出です。
(ぱくぱくさん)

今から30年以上も前、大学時代、関東近隣の国公立大学に北海道から単身生活をしていました。親からも貴重な仕送りをしてもらいましたが、授業料や小遣いなどいろいろなバイトをしながら苦学生として勉学に励んでいました。中でも思いで深いのは、冬休み北海道の実家には帰らず、1か月程、12月下旬から1月中旬まで正月返上で、山梨県の御坂峠にあった民宿で住み込みで部屋の清掃・調理場の手伝い・風呂場の清掃などをして働きました。民宿先のご家族は、とても優しい方たちで、バイト学生は私一人でしたが、朝・昼・夕食を一緒に分け隔て無く接してくださり、接客業の勉強をさせていただきました。今はもうその民宿は無くなってしまいましたが人の温かさを教えていただき、また、河口湖や富士山の絶景を望むことができ生涯忘れる事ができない思い出です。(northcarrotさん)

私立大学四年の直前が父親が倒れ、家業が途絶えてしまった事実と借金の不安を抱え、母親と交代で東室蘭の病院で付き添いをしていました。たまに学校に向かうと友の「決まったさぁ」明るい声が恨めしく想い、おのずと足も札幌から遠のき、やっと札幌の学習塾で面接までこぎつけても「、貴方は田舎に帰って、お母さんを支えないと・・・」との不採用通知。人口五千人程度の田舎に就職がある訳はなく、父親のベットの横で『焼きそば弁当』ばかり食べていました(お蔭でトラウマになって今は食べれません。)。でも「あと、一年、あと、一年、」と決めて生活費と学費の捻出の為にバイト、バイトの毎日でした。薄野でのバイトでは酔っ払いに絡まれ、背中に吐瀉物を流された事もありました。卒業が見えかけた大晦日も手稲のスーパーで蜜柑を売っていたら別の大学の二回生に「(就職も決まっていないのに)こんな事をして良いんんですか?」とまで言われ、初詣列車で札幌駅に向かい、始発列車を待って東室蘭に向かって母親と病院のロビーで、互いに疲労と不安で黙り込んでいた元旦の事が今でも鮮明に思い出されます。(熊五郎さん)

年末から家族でスキー場近くの民宿で泊まりお正月はずっとスキーをしていました。
おせち料理を作らなくて済むし息子二人も喜ぶし楽でした。(pureさん)

子供のころの思い出は、ほとんど初詣に行ったことがなかった、という事です。(gachapinさん)

うま煮と茶碗蒸しが恒例です。(まりもさん)

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