北海道の近代の歴史は、炭鉱を抜きに語ることはできないでしょう。ある時期、北海道はまさに石炭産業と共にありました。
私の石炭の思い出は小学校のときの教室のストーブです。道外の小学校でしたが、だるまストーブの燃料は石炭。たきつけ用の薪、新聞紙、石炭を取りに行くのは日直の役目。帰りの掃除のときの石炭の燃え殻の匂いは、今も記憶に焼き付いています。
きっと読者のみなさまは、直接炭鉱と関わりがあった方も多いことでしょう。炭鉱全盛のころ、街の様子はどんなだったのでしょう。
今年、石炭、鉄工、港湾の「炭鉄港」が日本遺産に制定された北海道。炭鉱や石炭に関する思いを、どうぞお寄せください。
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無料の共同浴場、3重4重の盆踊り。当時を知る貴重なお話です。映画が10円とは!
暖房手当というのは聞いたことがありますが、石炭手当とは。時代を感じますね。
ストーブ付近の机に不用意に触るとアチチってなりました
焦げたコート… それは切ないですね
わたしも炭鉱の町を訪れると、当時を知らなくても懐かしいような寂しいような感じがします。
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近すぎてお弁当箱が溶けてしまったり…
市営住宅にも石炭貯蔵庫があったのですね! 知らなかった〜。
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デレッキ?十能?今の子どもたちには通じないかもしれませんね。
うわー、そんなこともあったんですね! 貨車からこぼれ落ちる石炭。
燃料手当が石炭の現物支給!貴重なお話です。
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亜炭ですか。北海道ではあまり馴染みがありません。わたしが知らないだけ?
メガネの形をした薪ストーブ、我が家でも2000年頃まで使ってました!
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ご自身の膝を見るたび幼い頃が思い出されるなんて、うらやましいような、うらやましくないような… あ、そういえばわたしも手のひらに鉛筆の芯が。
石炭のテーマで火葬場のお話が聞けるとは。興味深いお話です。
炭鉱の町を方々見られてきたのですね。興味深い体験をされたのでは。
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2時間目ぐらいまではコートを着たままだった記憶があります。
リモコンでピッ の今からは考えられない苦労ですね。あれこれ悪戦苦闘している姿が目に浮かびます。
歌志内市は現在の10倍ほど人口があって、とても活気のある町だったそうですね。貸し切り列車で海水浴とは!
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スイッチオンですぐ暖まる現代からは考えられないですね。今の子どもには無理でしょうが、当時の子どもにも難しかったようです…
水がなくなって熱々の蒸発皿に水を足す瞬間が恐怖でした!
炭鉱がなければ、今の北海道もありませんね。
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三笠高校はレストランを運営していますね。 今度行ってみたい!
アノラックを焦がすのは定番ですね!
忘れずに、記憶をつなぎたいですね!
歌志内、夕張と、まさにその目で見られてきたのですね。ぜひ語り継いでいただきたいです。
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デレッキもジョンバーも今の子どもたちには説明が必要ですね
釧路の海底炭鉱は健在ですね。魚も美味しい街ですから久ぶりに訪れてみては?
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まつげが焦げただけで済んでよかった!でも女性にとって大切なまゆげ、災難でした。
今の子はスマホを使いこなすのは得意ですが、石炭ストーブを操る高度なテクニック?はありませんね。小学生の頃からとは、さすがです。
炭鉱は病院も持っていたのですね。
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今は「釧路コールマイン」となり、唯一残る坑内掘りの炭鉱となりましたね。
かつての日本の発展を、炭鉱が支えていましたね。
確かに「くべる」って日常で使わなくなりました
鉄道ファンがうらやむ貴重な体験です!
幌内は全盛期100軒を超えるお店があったそうですね 今は多くの地区で居住者が0人になっています
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立派な小学生。よく頑張りました!
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ジンギスカンした時は流石に怒られました。
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「炭鉄港」の「港」は小樽。 やはり石炭でつながっていたのですね。
冷めるのをじっと見つめていた、状況が目に浮かびますね。なんとなく気持ちわかります。
留萌にも炭坑があったのですね
どうしてルンペンストーブと呼ばれるようになったのでしょうかね
昔の小樽を知る方によく聞きました。 一度見てみたかった!
爆発、ありましたね。ストーブに近い席は大変でした。
石炭飴?調べてみたら赤平市名産なんですね!