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『昔、炭鉱があった。』
北海道の近代の歴史は、炭鉱を抜きに語ることはできないでしょう。ある時期、北海道はまさに石炭産業と共にありました。
私の石炭の思い出は小学校のときの教室のストーブです。道外の小学校でしたが、だるまストーブの燃料は石炭。たきつけ用の薪、新聞紙、石炭を取りに行くのは日直の役目。帰りの掃除のときの石炭の燃え殻の匂いは、今も記憶に焼き付いています。
きっと読者のみなさまは、直接炭鉱と関わりがあった方も多いことでしょう。炭鉱全盛のころ、街の様子はどんなだったのでしょう。
今年、石炭、鉄工、港湾の「炭鉄港」が日本遺産に制定された北海道。炭鉱や石炭に関する思いを、どうぞお寄せください。

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学生時代の下宿の庭先は、冬場になると、石炭が山盛りに積まれていました。大家さんの勤め先からの燃料手当とのことで、当時は現物支給だったのですね。(nobuさん)

燃料手当が石炭の現物支給!貴重なお話です。

石炭ストーブを子供の頃たいていました。家族皆が一部屋に集まり、デレキでかきまぜ、魚の骨を焼いて食べていました。(メーメーさん)

当時炭鉱で使う資材を納入していた会社に勤めていた。時の政府より石炭政策が発表された日、会社中どんよりした空気になり皆言葉少なになったのが思い出される。(タロさん)

祖父が炭鉱に関わる仕事をしていたと聞いたことがあるので、北海道で身近なものなのかなと感じました。(ゆいさん)

釧路で育ちました。実家にあった石炭ストーブ。定期的に父と母が煙突掃除をする姿が思い出されます。(みわんこさん)

札幌生まれ・育ちで、炭鉱と直接関係はありませんでしたが、家には「石炭小屋」があり、「石炭手当」で買った石炭が、寒くなる前に運び入れられ、一冬の暖房になりました。夏もお風呂は石炭で焚いていて、今は死語の「十能」や「デレッキ」を使って火の管理を子どもでもやっていました。小学校中・高学年頃に炭鉱離職者の子弟が沢山転入してきたのが、直接に一番近い関わりだったでしょうか。(猫野コネさん)

私も道外出身なので、炭鉱というものの直接の思い出はありませんが、小学校時代のストーブでコークスを使って燃やしていたのが記憶にあります。後は夕張の「バリバリ夕張」遊園地、博物館に子供を連れて遊びに行った事ですね。夏休みなのに入場者(私たち含め4~5組)より年配の係員の数が多くて、違和感を感じたのを覚えています。(ダークサイドさん)

炭鉱の町で生まれ、育ちました。どんどん炭鉱がつぶれ、友達も転校し、幼稚園、小学校、中学校がなくなりました。一番の悲しい記憶は炭鉱事故でたくさんの人が亡くなったことです。(あきおのははさん)

石炭は、産炭地から鉄路で室蘭などの港に輸送され本州へ送られたと思います。その鉄路の近くに住んでいた私は、長い貨物列車がガタゴト通るたび、左右に揺れて線路に落ちる石炭を拾い集め、家に持ち帰ってストーブの燃料にしました。拾ってもわずかな量でしたが、子供心に宝物を得たような気持でした。今では鉄路に立ち入ることなど到底できませんが、ポケットに入れた石炭のごつごつした感触を思い出します。(tentenさん)

うわー、そんなこともあったんですね! 貨車からこぼれ落ちる石炭。

昔、札幌駅が高架になる前のことですが、大学まで石炭列車の引き込み線が入ってきており、暖房は石炭を燃料としていました。学部毎に炭小屋があり、夜には暖房が切れ、寒い思いをしました。(おじさんさん)

小学生、中学生の時の暖房は石炭ストーブでした。自宅も、私が大学生のときまでは、石炭ストーブでした。ストーブには「湯沸かし器」が直結されていて、朝は、そこから洗面器にお湯を汲み、顔を洗っていました。(ヤマガラさん)

石炭ストーブに関する私の紙の思い出は、なんといってもデレッキと十能です。
子供の時分、親のいうことを聞かなければデレッキでぶったたくぞ!と脅され、子供たちには仕置きの道具として恐れられていました。懐かしい思い出です。(rittuさん)

デレッキ?十能?今の子どもたちには通じないかもしれませんね。

南大夕張の炭鉱で働く叔父夫妻の家に遊びに行ったのが昭和40年前半。
その頃はまだ蒸気機関車で尋ねた。
トンネルに入る直前に窓を閉めてと乗客同士が声をかけていたのが印象的でした。
煙がみんな車両に入ってしまうんですね。
当時住んでいた静岡県ではない光景で驚いたことが懐かしいです。(なおさん)

小学校の石炭ストーブが、がんがん燃えていたのが思い出させられます。自宅はまきストーブでした。(hawktipさん)

子どものころ札幌の市営住宅でしたが、物置の地下に石炭の貯蔵庫がありました。冬の夕方になると母がスコップで石炭を出していた姿が思い出されます。いつから石油になったのか覚えていませんが、確かに石炭が生活を支えていた時代がありました。(takuさん)

市営住宅にも石炭貯蔵庫があったのですね! 知らなかった〜。

ストーブで石炭を利用した記憶はないのですが、私が小学生の時に同級生の父親が炭鉱で働いていたのですが、生き埋めにあったと言うはなしを聞いたことがあります。
「石炭=怖いもの」と言うイメージが強いです。
(さささの母さん)

石炭を家の中に運ぶのが、弟と私の仕事でした。
スコップですくって金物バケツに入れるときに、ほこりが舞うのでとても嫌だった思い出があります。煙突にもすすがついて、お掃除がとてもたいへんでした。(リンクさん)

石炭世代ではないので、特に思うことはない。(みーくんさん)

北炭夕張鉱の事故をビデオで見たことがある。あれは、間違いなく人災だ。(たっくんさん)

昔室蘭に住んでいましたが、昔使用した石炭のつみおろし設備が港にありました。(めるもさん)

中学校のだるまストーブ。そばの棚に弁当を置いて温めておいたものでした。(けいこちゃんさん)

近すぎてお弁当箱が溶けてしまったり…

子どものころ わたしの父は公務員でしたが公舎が不足していたので三笠の先の幾春別に住んでいました。周りは炭鉱で働いている人たちがたくさんいました。炭住があって炭鉱と言えば思い出します。(koyukiさん)

予備校生の時、南小樽から桑園へ朝7時台の汽車で通っていました。通勤通学列車で、座れることはめったになく、こっそり郵便車に乗っていました。その中へ入れた時は快適でしたが、デッキに立った時は、トンネルを抜けるたびに煤煙に悩まされました。(賢吉さん)

小さな頃ルンペンストーブをたくのが大変でした。灯油ストーブになりうれしかったです。また、炭鉱の事故のニュースを耳にするたびにかわいそうにと思いました。石炭産業が寂れてしまいこれからどうなるのか不安でした。炭鉱で働く人は、釧路では高収入と言われていましたが、命がけの仕事だったのですね。今、便利な世の中ですが、ブラックアウトになると困ります。資源を大切にしたいです。(cowkoさん)

小中学時代の教室は、石炭ストーブでした。
スコップで、石炭をストーブに入れて教室まで運んだことを思い出しました。
午前中に燃やし過ぎると、午後からの授業は石炭が無くなり寒い中で耐えました。
石炭の燃えかすの匂いが懐かしいです。(こんちゃんさん)

夕張の炭坑見学に興味を覚え行きました。去年の火災があり非常に残念です。(みゆままさん)

今は昔、北海道は炭鉱を中心に栄えた街が多くありました。その殆どは炭鉱が閉山後衰退していきました。代わりになる産業が育たなかった、その結果です。観光を中心に舵を切った夕張市が、いの一番に破綻状態になったのは皮肉なかぎりです。街単体で頑張っても限界があります。もっと広い自治体、北海道や国がある程度の道筋をつくらないと無理なのではと思います。
現状では衰退するままですね。(北方不敗さん)

子どもの頃、石炭はいたるところに溢れていました。学校のストーブ。家のストーブ。はてはSLの列車まで。あのじんわりする温かさは世の中のゆっくりとした流れに合っていたと思います。迅速や清潔を求められるのは時代の流れ。(東方神起ペンさん)

 子供のころは貯炭式ストーブでした。燃え殻は、今のゴミステーションのように、捨てる場所が定められていた記憶があります。
 道路は、土ぼこりが舞わないようにコールタールが撒かれていました。(ともくんさん)

小中学校(東京)の冬の暖房は、だるまストーブに燃料は東京ガスが排出される「コークス」でした。コークスで襟元の刈り上げ部分を触ると、髪の毛がコークスの細かい穴に入りチクチク引っ張られたのを覚えています。(fukutanさん)

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